十本指のブログ

十は残りのもの。残りのものには至福がある。

「私は『私だ』」という神

「私は『私だ』」

というと、まるで物語の主人公の叫びのようだ。あるいは主人公になれなかった日陰者が自己肯定する叫びのようだ。

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どちらの場合でも、きっと世界は敵で、運命は理不尽で、神様なんていない、という絶望が隠れているかもしれない。


しかし、これは旧約聖書出エジプト記』3章14節からの引用だ。

モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」”


”神はモーセに仰せられた。【私は『私だ』】”


そして、これが聖書の中心だ。

神の名は「私だ」である。

意外に思えるかもしれない。宗教が、自分を肯定するものだということは。

無神論の人は、宗教は自分を無くすもので、無宗教は自分を保証してくれるものだと思っているだろう。

しかし、真実はあべこべだ。何もかもが逆なのだ。


無神論の世界では、必ず、「私だ」――自分であることが攻撃される。

「自分のわがままばっかり言っていないで、【お父さん】や【お母さん】の言うことを聞きなさい」

「あなたは(自分ではなくて)【お姉ちゃん】なんだから、ガマンしなさい」

「お前は(自分じゃなくて)【弟】だから【兄貴】に逆らうなよ」

「自分を出さないで【みんな】に合わせなさい」

「自分を後回しにして【他人】を立てることを覚えなさい」

「自分はやせてないけど、【芸能人】はやせてる」

「自分は【エゴ】で、悪いものだ」

「自分より【友達】を優先するのが真の友情」

「自分より【恋人】を大事にするのが恋のルール」

「自分より【子供】を大事にするのが親というもの」

「自己犠牲は美しい」

「自己アピールうぜぇ」

「自己主張が強すぎると嫌われるよ」

「自分が好きってヒト、ちょっと痛くなーい?」

「自分の国はダサいのに、【外国】はカッコいい」

「自分の【理想】を語ってないで、【現実】に合わせなさい」

「【空気を読め】。自分の【意見】を言うな」


などなど。これらで否定されているのは、【自分】である。

これらは「エゴ」や「わがまま」や「行き過ぎ」や「主張」や「理想」や「意見」や「国」を否定しているように見せかけているが、ひたすら【自分】を否定している。

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無神論はひたすら【自分(神)を信じるのをやめなさい!】と調教する。神などいない、お前はサルだ!サルの子孫なんだ!と。

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だから『旧約聖書』では言う。

イスラエルの神、ヤハウェはこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入り口から入り口に行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ」――『出エジプト記』3-27

これは臨済宗の開祖・臨済の言葉に似ている。

「逢佛殺佛。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。逢父母殺父母。逢親眷殺親眷。始得解脱。」――『臨済録

(仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん。)

だからイエスも言う。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」
「そして自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」――『マタイによる福音書』10-37、10-38

この「わたし」をイエス・キリストという「他人」だと勘違いしたり、聖書の神を「よその国の神」だと勘違いしていると、無情に聞こえる。

だが、「わたし」は「わたし」であり、神が「私だ」であることに気づくなら、ここは【自分を取り戻せ】という愛のメッセージを受け取ることになる。

神やイエスを「他人」だと勘違いしていたニーチェも言う。

”誠実さから発する道徳の自己超克、モラリストが自分を超克してその反対のものに――私という存在に――なること、これが私の口から出されている、ツァラトゥストラという名前が意味する処のものである。――『この人を見よ』


神を信じることは自分を信じることである。

神をゆるすことは自分をゆるすことだ。

神を愛することは自分を愛することだ。

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なぜなら、神は「私」だから。

七月七日の七夕に。

五つの柱は折れた。
七つの天が見える。
五色は七色となり、
神の弓が空に出る。
火は正義を現して、
悪神は地に落ちる。
艮から幸運が来て、
旧吉は永久に去る。
左は右に、右は左。
鳥と魚、人に非ず。
六が人、彼は彼ら。
七は生命、五は死。

賢者の石は、作れるのか、存在するのか。

賢者の石は、賢者の石である。

最も愚かな者は、金もうけのためにそれを作れるかもしれないと思う。
最も愚かな者は、卑金属を貴金属に変える石など作れるわけがないと言う。

すごく愚かな者は、それを自分で作ろうとしてみる。
すごく愚かな者は、錬金術をやらずに別の金もうけの方法を探す。

とても愚かな者は、「錬金術はアルコールの蒸留方法、酸の大部分を発明した化学の前身だ」と言う。
とても愚かな者は、「粒子加速器で金が得られたけれど、採算が合わずに損をする」と言う。

愚かな者は、「パラケルスス錬金術師ではなく、医者だった」と言う。
愚かな者は、「結局、誰も賢者の石を作ったことがない」と言う。

普通の者は、「賢者の石は存在する」と言う。

賢い者は、「賢者の石は作る必要がない」と言う。

聖なる者は、言葉を秘める。

聖なる者を製造する聖なる者は、賢者の石を使う。

賢者の石は、賢者の石である。

『野生の思考』と『神秘のカバラー』

『野生の思考』は、レヴィ=ストロースが、地球上から<野蛮>と<文明>という幻想を解体した作品として、世界に広く知られている。ただ、この本がダイアン・フォーチュンの『神秘のカバラー』第12章に強く影響されたものだ、という指摘を、日本語サイトで見かけないのが…私には気になる。私が見つけてないだけなら良いのだが。

この本のこの章では、「人類学者」が未熟な考えとして扱っている「野生の思考」についての手厳しい指摘が見受けられる。例えば、『老子』なら英語圏での標準訳が Old Boy という滑稽な翻訳をされていると。つまり、原始人が未熟なのではなく、人類学者の思考と翻訳こそが「未熟」で「滑稽」だと。

また、第12章の3段落に
>「他人がその『神』を知る『名』を謗るなかれ。アラーを謗ることはアドナーイを謗ることなり。」
という密儀の言葉が引用されている。

1935年に初版が出た『神秘のカバラー』には、ユダヤ教神秘主義カバラー、『老子』、イスラーム教、野生の思考などに対して、批評的な、偏見や先入観のない公平なまなざしがある。またダイアンは「自然の諸力の人格化と神格化」を「未熟ではあるが賢い試み」「解決不可能な二元論の破壊的、跛行的影響から自らを救った」と高く評価している。

人類学者であるレヴィ=ストロースが、人類学者に深く考えることを強いて成功した彼が、『神秘のカバラー』の12章7段落の「異教の多神教体系を人間精神の異常な気違い沙汰と見てはならない」「異教の神々が、その全盛時代に最も知的な奥義に精通していた最高神官達にとって、何を意味していたのかを発見するように努めなければならない」を読まなかったし、心に留めなかった――と考えるのは難しい。

日本の人は、レヴィ=ストロースミルチャ・エリアーデのように、【野蛮と文明】という批評精神が欠如したダーウィニズム的な無知愚鈍から救われた人たち、他人を無知から救う彼らのテクストに関心が薄いのかもしれないが、人と時代は進化や文明という枠を超えてうごめいている。昔も今もこれからもだ。

何となく、野蛮か文明か、田舎か都会かと言われなくなったワケではなく、誰かが勇気ある一歩を踏み出したおかげで、その背中に、その足あとについていく人たちが現れ、次第にそれが道になったのだ。

良い女魔法使いは、童話の中で「召使いをお姫様に変える」だけでなく、世界的に有名な文化人類学より先に、その道を歩く開拓者となり「野蛮と文明という不毛な二元論に支配された世界に救いの魔法をかけた」。自ら救われ、他者を救う賢女は、自ら救われ、人と世界を救う者たちの連環を知っていた。

 あなたの泉を祝福されたものとし、
 あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。
 愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。
 その乳房がいつもあなたを酔わせ、
 いつも彼女の愛に夢中になれ。―――『箴言』5章18〜19節