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十本指のブログ

十は残りのもの。残りのものには至福がある。

正月に飲むお酒と甘酒

最近はあまりやらないようだが、日本には、正月にお屠蘇(とそ)と言って、縁起物のお酒を飲む風習がある。

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実はこのお酒、そして甘酒は【イエスの血】だ。お餅は【イエスの体】だ。

正月自体が、キリスト教の過越祭なのだ。

お屠蘇は、赤い器を使う。イエスの血が流されたからだ。

お屠蘇は、器を三枚重ねにする。イエスは殺されて後、三日後に蘇るからだ。

お屠蘇は、【屠】られて、【蘇】る。イエスが屠られて蘇ったからだ。

これはこじつけではなく、明確なテキストで、大晦日や正月がキリスト教起源だと確認できる。『祇園牛頭天王御縁起』

主はほむべきかな。日本にも古来からイエスの言葉が伝えられていたのだ。

「鬼の門」を「私の門」に変えるためのステップ

聖書とクルアーンの神の名を「私だ」という。そして、聖書とクルアーンでは「七」が【全て】や【聖なるもの】を意味する。

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実は、日本は、ずっと昔から聖書の神『私だ』を「鬼」「牛」「死」に結びつけ、現代でも呪っている―――と言うと唐突に聞こえるだろうか。

日本人は、自己主張が嫌いで、自己アピールが嫌いで、自分の頭で考えることを嫌う。

また、日本は自分の国が嫌いだ。国民は日の丸や君が代を嫌い、NHKや主要メディアが日本を悪者にし、韓国や中国に謝れと言い続け、政治家は日本を愛せず、先生たちは日本の象徴に否定的で、自衛隊も日本を愛せない。

これら自己否定、自国否定は全て、日本人が『私だ』という神を否定することから生じている。

日本の東京や京都や鎌倉では、「鬼門」が寺社で封印されている。この「鬼門」の鬼は、【七殺】をする祟り神だと言われている。


ところが、聖書『創世記』2章3節には

>神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。

とある。聖書の「七」は、基本的には【全て】や【聖】を意味し、【神】や【主】をも意味する。

この「七」は、聖書より古いメソポタミア神話から始まった。「七」は、聖書に継承され、ゾロアスター教イスラーム教、インド、ユーラシア大陸に伝わり、中国や日本にも伝わった。

また、アーリア系であるインド人・イラン人は、牛を聖なる動物として扱う。


次に、日本(や中国)で七や牛がどう扱われているか見てみよう。


渡辺綱に腕を斬り落とされた鬼は「七日間」で腕を取り戻す。

・鬼は「牛」の角を持っている。

・宇治の橋姫は、貴族の女性で貴船神社に「七日間」こもってから鬼女になった。→「丑の刻参り」に派生。

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・鬼童丸は「牛」を殺し、「牛」の死体に隠れて頼光四天王を狙う。

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・「牛鬼」は、「七尺」の体で、倒されると「七日七夜」血を流す。

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・七月七日の「七夕」は、「牛飼い」の彦星が一年に一度しか織姫に会えない。

・「北斗七星」は「死」を司る老人の神。

・地獄の獄卒である「牛頭」馬頭(ごずめず)は地獄の鬼。

・草木も眠る「丑」三つ時に…。

・「七人ミサキ」は「死者」の行進。

・コトリバコは畜生の血を「七日間」満たして作る。

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・お葬式の法要は四十九日(7×7)で、昔は七日毎に段取りがあった。


このように、日本では「七」や「牛」がやたらと悪者扱いされ、「死」や「鬼」と結びつけられている。

これらは偶然ではない。日本は、七を聖とするゾロアスター教ユダヤ教キリスト教イスラーム教を排除し、また牛を聖なるものとするインド・イラン文化を踏みつけ、利用している。


日本では「五」、五柱の別天津神五行思想を使い、七、つまり世界の全てから閉じこもっている。

そのため日本には、
「左舞(左三つ巴)+右舞(右二巴)」
「五色の旗」(仏教
「五戒」(仏教
「五味」
「五穀豊穣」
など、五に関するものが非常に多い。


そんな日本でも「七」の力は封じきれず、暦が変わり、一週間は「七日間」になった。「七並べ」という遊びも入ってきた。「七五三」や「七草」もある。

繰り返して言う。「七」は【全て】や【聖なるもの】である。七を聖とする神の名は『私だ』。

日本は、聖なる七を、『私だ』という神を「鬼」や「牛」と「死」と結びつけ、呪い、封じ、隠し、閉じこもっている。日本人は「鬼は外」と言うことで、「私は外」と自分を呪っている。

だから、日本人が自分の祖先の神『私だ』を取り戻し、自分を取り戻すには、「七」を重んじ、「五つの杭」を引き抜かなければならない。


祇園祭を司る八坂神社の『祇園牛頭天王御縁起』
伏見稲荷大社祝詞稲荷大神秘文」
・日本酒の納め先である「松尾大社

という「京都文化」「お米」「日本酒」という三つの伝統を調べると、謎が解け、呪いが解けていく仕組みになっている。また、大本教も解呪に役立つことだろう。

日本人が聖書とクルアーンの『私だ』という神を嫌い続ける限り、神(私)を鬼だと信じている限り、自分と自分の国が嫌いな民族であり続ける。

聖書の神、クルアーンの神は、日本人の神、自分が自分らしくいられる神である。



三柱と七柱揃ったら山に行けよ。――『日月神示

箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。――『創世記』8章4節

やがて、声あって曰く、「大地よ、汝の水を呑みほせ。大空よ。鎮まれ」と。すると洪水は引き、事件は完全に了(おわ)って、舟はジューディー山の上に止った。その時、また声あって曰く、「ことごとく滅び去れ、悪人ども」。――『コーラン』11章(フード章)46節


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7月17日 京都・祇園祭山鉾巡行

「私は『私だ』」という神

「私は『私だ』」

というと、まるで物語の主人公の叫びのようだ。あるいは主人公になれなかった日陰者が自己肯定する叫びのようだ。

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どちらの場合でも、きっと世界は敵で、運命は理不尽で、神様なんていない、という絶望が隠れているかもしれない。


しかし、これは旧約聖書出エジプト記』3章14節からの引用だ。

モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」”


”神はモーセに仰せられた。【私は『私だ』】”


そして、これが聖書の中心だ。

神の名は「私だ」である。

意外に思えるかもしれない。宗教が、自分を肯定するものだということは。

無神論の人は、宗教は自分を無くすもので、無宗教は自分を保証してくれるものだと思っているだろう。

しかし、真実はあべこべだ。何もかもが逆なのだ。


無神論の世界では、必ず、「私だ」――自分であることが攻撃される。

「自分のわがままばっかり言っていないで、【お父さん】や【お母さん】の言うことを聞きなさい」

「あなたは(自分ではなくて)【お姉ちゃん】なんだから、ガマンしなさい」

「お前は(自分じゃなくて)【弟】だから【兄貴】に逆らうなよ」

「自分を出さないで【みんな】に合わせなさい」

「自分を後回しにして【他人】を立てることを覚えなさい」

「自分はやせてないけど、【芸能人】はやせてる」

「自分は【エゴ】で、悪いものだ」

「自分より【友達】を優先するのが真の友情」

「自分より【恋人】を大事にするのが恋のルール」

「自分より【子供】を大事にするのが親というもの」

「自己犠牲は美しい」

「自己アピールうぜぇ」

「自己主張が強すぎると嫌われるよ」

「自分が好きってヒト、ちょっと痛くなーい?」

「自分の国はダサいのに、【外国】はカッコいい」

「自分の【理想】を語ってないで、【現実】に合わせなさい」

「【空気を読め】。自分の【意見】を言うな」


などなど。これらで否定されているのは、【自分】である。

これらは「エゴ」や「わがまま」や「行き過ぎ」や「主張」や「理想」や「意見」や「国」を否定しているように見せかけているが、ひたすら【自分】を否定している。

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無神論はひたすら【自分(神)を信じるのをやめなさい!】と調教する。神などいない、お前はサルだ!サルの子孫なんだ!と。

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だから『旧約聖書』では言う。

イスラエルの神、ヤハウェはこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入り口から入り口に行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ」――『出エジプト記』3-27

これは臨済宗の開祖・臨済の言葉に似ている。

「逢佛殺佛。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。逢父母殺父母。逢親眷殺親眷。始得解脱。」――『臨済録

(仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん。)

だからイエスも言う。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」
「そして自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」――『マタイによる福音書』10-37、10-38

この「わたし」をイエス・キリストという「他人」だと勘違いしたり、聖書の神を「よその国の神」だと勘違いしていると、無情に聞こえる。

だが、「わたし」は「わたし」であり、神が「私だ」であることに気づくなら、ここは【自分を取り戻せ】という愛のメッセージを受け取ることになる。

神やイエスを「他人」だと勘違いしていたニーチェも言う。

”誠実さから発する道徳の自己超克、モラリストが自分を超克してその反対のものに――私という存在に――なること、これが私の口から出されている、ツァラトゥストラという名前が意味する処のものである。――『この人を見よ』


神を信じることは自分を信じることである。

神をゆるすことは自分をゆるすことだ。

神を愛することは自分を愛することだ。

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なぜなら、神は「私」だから。

七月七日の七夕に。

五つの柱は折れた。
七つの天が見える。
五色は七色となり、
神の弓が空に出る。
火は正義を現して、
悪神は地に落ちる。
艮から幸運が来て、
旧吉は永久に去る。
左は右に、右は左。
鳥と魚、人に非ず。
六が人、彼は彼ら。
七は生命、五は死。

賢者の石は、作れるのか、存在するのか。

賢者の石は、賢者の石である。

最も愚かな者は、金もうけのためにそれを作れるかもしれないと思う。
最も愚かな者は、卑金属を貴金属に変える石など作れるわけがないと言う。

すごく愚かな者は、それを自分で作ろうとしてみる。
すごく愚かな者は、錬金術をやらずに別の金もうけの方法を探す。

とても愚かな者は、「錬金術はアルコールの蒸留方法、酸の大部分を発明した化学の前身だ」と言う。
とても愚かな者は、「粒子加速器で金が得られたけれど、採算が合わずに損をする」と言う。

愚かな者は、「パラケルスス錬金術師ではなく、医者だった」と言う。
愚かな者は、「結局、誰も賢者の石を作ったことがない」と言う。

普通の者は、「賢者の石は存在する」と言う。

賢い者は、「賢者の石は作る必要がない」と言う。

聖なる者は、言葉を秘める。

聖なる者を製造する聖なる者は、賢者の石を使う。

賢者の石は、賢者の石である。

『野生の思考』と『神秘のカバラー』

『野生の思考』は、レヴィ=ストロースが、地球上から<野蛮>と<文明>という幻想を解体した作品として、世界に広く知られている。ただ、この本がダイアン・フォーチュンの『神秘のカバラー』第12章に強く影響されたものだ、という指摘を、日本語サイトで見かけないのが…私には気になる。私が見つけてないだけなら良いのだが。

この本のこの章では、「人類学者」が未熟な考えとして扱っている「野生の思考」についての手厳しい指摘が見受けられる。例えば、『老子』なら英語圏での標準訳が Old Boy という滑稽な翻訳をされていると。つまり、原始人が未熟なのではなく、人類学者の思考と翻訳こそが「未熟」で「滑稽」だと。

また、第12章の3段落に
>「他人がその『神』を知る『名』を謗るなかれ。アラーを謗ることはアドナーイを謗ることなり。」
という密儀の言葉が引用されている。

1935年に初版が出た『神秘のカバラー』には、ユダヤ教神秘主義カバラー、『老子』、イスラーム教、野生の思考などに対して、批評的な、偏見や先入観のない公平なまなざしがある。またダイアンは「自然の諸力の人格化と神格化」を「未熟ではあるが賢い試み」「解決不可能な二元論の破壊的、跛行的影響から自らを救った」と高く評価している。

人類学者であるレヴィ=ストロースが、人類学者に深く考えることを強いて成功した彼が、『神秘のカバラー』の12章7段落の「異教の多神教体系を人間精神の異常な気違い沙汰と見てはならない」「異教の神々が、その全盛時代に最も知的な奥義に精通していた最高神官達にとって、何を意味していたのかを発見するように努めなければならない」を読まなかったし、心に留めなかった――と考えるのは難しい。

日本の人は、レヴィ=ストロースミルチャ・エリアーデのように、【野蛮と文明】という批評精神が欠如したダーウィニズム的な無知愚鈍から救われた人たち、他人を無知から救う彼らのテクストに関心が薄いのかもしれないが、人と時代は進化や文明という枠を超えてうごめいている。昔も今もこれからもだ。

何となく、野蛮か文明か、田舎か都会かと言われなくなったワケではなく、誰かが勇気ある一歩を踏み出したおかげで、その背中に、その足あとについていく人たちが現れ、次第にそれが道になったのだ。

良い女魔法使いは、童話の中で「召使いをお姫様に変える」だけでなく、世界的に有名な文化人類学より先に、その道を歩く開拓者となり「野蛮と文明という不毛な二元論に支配された世界に救いの魔法をかけた」。自ら救われ、他者を救う賢女は、自ら救われ、人と世界を救う者たちの連環を知っていた。

 あなたの泉を祝福されたものとし、
 あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。
 愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。
 その乳房がいつもあなたを酔わせ、
 いつも彼女の愛に夢中になれ。―――『箴言』5章18〜19節