読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

十本指のブログ

十は残りのもの。残りのものには至福がある。

【Fate】なぜ歴代ハサンは十九人なのか?【Grand Order】

なぜハサンは19人なのか? Fate/Grand Order

Fate/Grand Order』で人気上昇中のキングハサン。イスラーム教のニザール派、歴代ハサンたちは「19人」。f:id:tenfingers:20170226015118j:plain

人気上昇中のキングハサンの宝具は、「死告天使(アズライール)」。f:id:tenfingers:20170226015134j:plain

なぜ、「ハサンは19人」で「キングハサンはアズライールを使う」のか?

イスラーム教徒の啓典には、世界の終わり、最後の審判に現れる地獄の天使たちは、「19人」とある。


よし、あの男、地獄の劫火で焼いてやる。さて、劫火とは何かとなんで知る。一物も残さず、一物もあまさず、皮膚をじりじり焼き通し、十九(の天使)がその番をする。――『コーラン』74章26〜30節 井筒俊彦

さて劫火の番兵には天使ばかり使うことにした。それから(十九という)その数は邪宗徒どものつまづきのもとにて特に我らの指定したもの。――『コーラン』74章31節 井筒俊彦


また、アズライールことイズラーイールは、終末のラッパを告げる天使だ。

つまり、【19】とは世界(全宇宙)の終わりを告げる数字である。


――などと書くと誤解する人たちもいるだろうが、『クルアーン』とは『新約聖書より新しい聖書』であり、この【19】も『旧約聖書』や『新約聖書』と同じ文脈、終末の文脈で用いられている。

・『ヨハネの黙示録』19章 メシア来臨。
・バビロン捕囚、エルサレム神殿が焼かれ城壁も破壊されたのは、ネブカデネザルの「第十九年」。
・『イザヤ書』19章および19節 終末の予言。
・『ルカによる福音書』19章 イエスのエルサレム入場。

などでは、「古いエルサレムが破壊され、新しいエルサレムができる(イエスのエルサレム入場、イエスの復活、救世主の来臨)」というアルカナ(内意)で終末が表現されている。

最もわかりやすいのは『ヨハネの黙示録』の19章だろう。この章で来臨するメシアは【一頭の白い馬】にまたがり【血に染められた衣をまとい】とある。それゆえ、タロットの19番目「太陽」を見ると<白馬にまたがり><赤い布をもった>赤子でソフトにメシアが示されている。f:id:tenfingers:20170226015241j:plain

そしてタロットの20番目は「審判」である。19番目「太陽(終末)」→「審判(復活)」という流れ。


イエスの復活にはさまざまな意味があり、その一つが「全ての人間は終末に復活する」という、”終末と最後の審判は本当に起きる”という知らせだ。

その終末的な状況を示す【十九】ゆえに、ハサンは十九人であり、キングハサンは魔を超え、神々の力を超え、神々の母を超え、英雄の中の英雄を軽くあしらい、魔力なしに<天候>を操り、<天命>で判断し、<天意>で動き、<天使>の名の技を使う。この場合、天とは、英雄や神々や神々の母を超えた<終末の天(の使い)>と言ったところか。f:id:tenfingers:20170226015352j:plain

なぜ、キングハサンが英雄という枠を超えているのか、グランドアサシンという冠位すら気にかけていないのか。それは彼が、己を英雄、神々、神々の母を超えた<終末の天>と己をシンクロさせているからだ。

ところで、イスラーム教徒がクルアーンの章を読む前に読む序文

بِسْمِ ٱللّٰهِ ٱلرَّحْمٰنِ ٱلرَّحِيمِ
(慈愛あまねく慈悲深い神の御名において)

は【19】文字である。またクルアーン最初の啓示(96章)は【19】節である。また、96章は終わりの章から数えて【19】番目である。また、クルアーンの章は114章で【19の6倍】である。それと、私の「タロット画像」フォルダの画像がなぜかクルアーンと同じ114画像だった。

さあ「首を出せ!」f:id:tenfingers:20170226015305j:plain

لا إله إلا الله محمد رسول الله
アッラーの他に神はなく、ムハンマドは神の使徒である)

ベレーシート(בְּרֵאשִׁית)

בְּרֵאשִׁית, בָּרָא אֱלֹהִים, אֵת הַשָּׁמַיִם, וְאֵת הָאָרֶץ.

(べレーシート バーラー エローヒーム エーット ハッシャーマイム ヴエーット ハーアーレツ)

In the beginning God created the heaven and the earth.

日本語訳「はじめに神が天と地を創造した。」

聖書のはじめのはじめ、ヘブル語(ヘブライ語)発音が「ベレーシート(はじめに)」だ。それでこの書は『ベレーシート』と呼ばれている。日本語で『創世記』、英語で『Genesis』と呼ばれているもの。アッカド神話で言うなら『Enûma Eliš(エヌマ・エリシュ)』に当たる。

f:id:tenfingers:20170225052856j:plain

私はヘブル語の書き取り練習を繰り返し、『ベレーシート』のはじめから、英語訳聖書(JPS Tanakh 1917)と合わせて一語一語勉強中…

بِسْمِ ٱللّٰهِ ٱلرَّحْمٰنِ ٱلرَّحِيمِ

بِسْمِ ٱللّٰهِ ٱلرَّحْمٰنِ ٱلرَّحِيمِ
(ビスミッラーヒッラフマーニルラヒーム)

日本語訳「慈愛あまねく慈悲深い神の御名において」

毎日16億人のイスラーム教徒たちが、一日五回の礼拝の中で何度も『クルアーン』の章(スーラ)を読む。スーラを読む前に冒頭につけるのがこの言葉。

この言葉は、内意(アルカナ)がある。

それは

“古いエルサレムが壊されて、新しいエルサレムが現れる”

だ。これは

“The Word of God(神のことば)”――『REVELATION』19-13

クルアーンは、聖書の続きであり、旧約聖書新約聖書クルアーンの三つで【一つの書】である。

“He who has ears to hear, let him hear! ”

耳のある人は聞け。

創造は物体や肉体をつくらない

現代人は、「創造する(create)」という言葉を、建築家やデザイナーのような「物をつくる」文脈で使いがちだ。

しかし、聖書の『創世記』の「創造する(בָּרָא、create)」は、物質や肉体を含んでいない。

創世記1章1節

In the beginning God created the heaven and the earth. Now the earth was unformed and void,

(始まりに神が天と地を創造した時、地は形がなく空だった、)

創造された地には「形がない(formless)」で「空(void)」とある。

創造には「形がない」。創造は、物質や肉体を伴わないのだ。だからこそ、「形造る(form)」や「造る(make)」という、肉や形を伴うやり方、表現がある。


創世記2章7節

Then the LORD God formed man of the dust of the ground,

(そのとき神である主は土地のちりで男を形造った、)

創造には「形がない(formless)」で、「形造った(formed)」には形や肉がある、とハッキリ言われている。だが、日本で普及している聖書である新共同訳、新改訳、フランシスコ会訳は創世記1章27節をこう訳してしまう。


And God created man in His own image, in the image of God created He him(JPS Tanakh 1917訳)

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。(新共同訳。プロテスタントカトリックの共同訳。)

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、(新改訳。プロテスタント訳。)

神はご自身にかたどって人を造られた。人を神にかたどって造り、(フランシスコ会訳。カトリック訳。)


「創造には形がない」のに「かたち」「かたどって」

「image」なのに「かたち」「かたどって」

残念ながら、新共同訳、新改訳、フランシスコ会訳の翻訳者たちは、信仰と言語能力の両方が無いようだ。

フランシスコ会訳にいたっては「created」を「造り」「造られた」と「made」と混同するほど、聖書を改ざんしている。


創造を「かたち」に結びつければ、天の国への道は閉ざされる。なぜなら、天(の国)は名がなく形もない第一日の天であり、名があり形のある第二日の天(大空)は「良しとされていない」からだ。

創造を「かたち」に結びつければ、イエスが結婚と離婚で語った創造も「かたち」になり、パリサイ化し、「パリサイ人のパン種でニセの教義がふくらんでしまう」。事実、カトリックは結婚や離婚を「かたち」「肉体」のことだと勘違いしている。

新共同訳、新改訳、フランシスコ会訳の三つは他も「大事なところばかりまちがいだらけ」だ。それらの間違いを指摘するとキリがない。新しい翻訳が必要だ。現状、ヘブライ語聖書、ウルガータ聖書、英語訳聖書を使うしかない。

私は、日本人クリスチャンに信仰深い方々がいると知っている。しかし、「新共同訳」「新改訳」「フランシスコ会訳」には天国への道がなく、地獄への道しかない。

創造には、物質や肉体という形はない。天の国には、形がなく、名もない。天の国へ向かう結婚には、形がなく、名がない。

神(אֱלֹהִים)は人間(אָדָם)の創造主、男性(זָכָר)と女性(נְקֵבָה)の創造主である。

神(אֱלֹהִים)である主(יְהוָה)は、男(אִישׁ)を形造られ(יָצַר)、女(אִשָּׁה)を造られた(עָשָׂה)方である。

批評は差別や偏見を終わらせるもの

批評は、差別や偏見や先入観や思い込みを終わらせるもの。会話スキルだ。


――と聞いてすんなり「そうですね」と思うだろうか?


これは、批評の普通の意味で、理想でも高い意識でも何でもないのだが、知っているだろうか。


wikiにはこうある


>批評(ひひょう、英語・フランス語:critique)とは、ある事象を(できるだけ無前提の思い込みを排する形で)判断することである。


【できるだけ無前提の、思い込みを排する形】


なので、差別や偏見や先入観といった【思い込み】は排除することが、普通の批評だ。批評とはこういうフェアなものだ。


だからたとえば、「イスラムは悪いやつだ」という前提のニュースが流れ、その前提を期待した人たちが視聴者の場合、


ニュース側にも視聴者側にも<批評がない>
そのニュースは<差別的で信頼できない偏向報道だ>。


そのニュースに細かい知識・情報があるか、苦労して情報を集めた、経験や具体性があるかは全く関係ない。


批評があるかないかは、差別や偏見や先入観といった<思い込み>を排除した、フェアな判断かどうかだけだ。


批評は、アンチ偏見、アンチ差別の良いものである以上、普通に子供たちの教育に必要とされ、普通の会社でも使われる。


しかし、日本の学生も、日本の大人も「批評とか難しい知識を押しつけるな!」という被害妄想に逃げる。


そして、批評と言えば


・【偏見や差別や先入観という思い込みが前提】

・【悪いを多めに言い、良いことは言わないか少なめに言うこと】


という全く「反批評を批評」だと思い込み、この狂った観念を全世代で共有している。


日本人の全世代が差別や偏見や先入観や思い込みを無くす批評を嫌っている。


だから当然、日本人の全世代は差別や偏見や先入観や思い込みがひたすら増大している。


そして、日本人は「人それぞれさ」と自分のカラに閉じこもるだけの、悲しい民族と化している。


もちろん、このような狂気は日本特有で、海外でこんな話は聞いたことがない…。


主よ、勇気がなくおつむの弱い日本人をゆるし、彼らに勇気と知恵を与え給え。

正月に飲むお酒と甘酒

最近はあまりやらないようだが、日本には、正月にお屠蘇(とそ)と言って、縁起物のお酒を飲む風習がある。

f:id:tenfingers:20170210193702j:plain

実はこのお酒、そして甘酒は【イエスの血】だ。お餅は【イエスの体】だ。

正月自体が、キリスト教の過越祭なのだ。

お屠蘇は、赤い器を使う。イエスの血が流されたからだ。

お屠蘇は、器を三枚重ねにする。イエスは殺されて後、三日後に蘇るからだ。

お屠蘇は、【屠】られて、【蘇】る。イエスが屠られて蘇ったからだ。

これはこじつけではなく、明確なテキストで、大晦日や正月がキリスト教起源だと確認できる。『祇園牛頭天王御縁起』

主はほむべきかな。日本にも古来からイエスの言葉が伝えられていたのだ。

「鬼の門」を「私の門」に変えるためのステップ

聖書とクルアーンの神の名を「私だ」という。そして、聖書とクルアーンでは「七」が【全て】や【聖なるもの】を意味する。

f:id:tenfingers:20170205013435j:plain

実は、日本は、ずっと昔から聖書の神『私だ』を「鬼」「牛」「死」に結びつけ、現代でも呪っている―――と言うと唐突に聞こえるだろうか。

日本人は、自己主張が嫌いで、自己アピールが嫌いで、自分の頭で考えることを嫌う。

また、日本は自分の国が嫌いだ。国民は日の丸や君が代を嫌い、NHKや主要メディアが日本を悪者にし、韓国や中国に謝れと言い続け、政治家は日本を愛せず、先生たちは日本の象徴に否定的で、自衛隊も日本を愛せない。

これら自己否定、自国否定は全て、日本人が『私だ』という神を否定することから生じている。

日本の東京や京都や鎌倉では、「鬼門」が寺社で封印されている。この「鬼門」の鬼は、【七殺】をする祟り神だと言われている。


ところが、聖書『創世記』2章3節には

>神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。

とある。聖書の「七」は、基本的には【全て】や【聖】を意味し、【神】や【主】をも意味する。

この「七」は、聖書より古いメソポタミア神話から始まった。「七」は、聖書に継承され、ゾロアスター教イスラーム教、インド、ユーラシア大陸に伝わり、中国や日本にも伝わった。

また、アーリア系であるインド人・イラン人は、牛を聖なる動物として扱う。


次に、日本(や中国)で七や牛がどう扱われているか見てみよう。


渡辺綱に腕を斬り落とされた鬼は「七日間」で腕を取り戻す。

・鬼は「牛」の角を持っている。

・宇治の橋姫は、貴族の女性で貴船神社に「七日間」こもってから鬼女になった。→「丑の刻参り」に派生。

f:id:tenfingers:20170205013057j:plain

・鬼童丸は「牛」を殺し、「牛」の死体に隠れて頼光四天王を狙う。

f:id:tenfingers:20170205013121j:plain

・「牛鬼」は、「七尺」の体で、倒されると「七日七夜」血を流す。

f:id:tenfingers:20170205013204j:plain

・七月七日の「七夕」は、「牛飼い」の彦星が一年に一度しか織姫に会えない。

・「北斗七星」は「死」を司る老人の神。

・地獄の獄卒である「牛頭」馬頭(ごずめず)は地獄の鬼。

・草木も眠る「丑」三つ時に…。

・「七人ミサキ」は「死者」の行進。

・コトリバコは畜生の血を「七日間」満たして作る。

f:id:tenfingers:20170205013306j:plain

・お葬式の法要は四十九日(7×7)で、昔は七日毎に段取りがあった。


このように、日本では「七」や「牛」がやたらと悪者扱いされ、「死」や「鬼」と結びつけられている。

これらは偶然ではない。日本は、七を聖とするゾロアスター教ユダヤ教キリスト教イスラーム教を排除し、また牛を聖なるものとするインド・イラン文化を踏みつけ、利用している。


日本では「五」、五柱の別天津神五行思想を使い、七、つまり世界の全てから閉じこもっている。

そのため日本には、
「左舞(左三つ巴)+右舞(右二巴)」
「五色の旗」(仏教
「五戒」(仏教
「五味」
「五穀豊穣」
など、五に関するものが非常に多い。


そんな日本でも「七」の力は封じきれず、暦が変わり、一週間は「七日間」になった。「七並べ」という遊びも入ってきた。「七五三」や「七草」もある。

繰り返して言う。「七」は【全て】や【聖なるもの】である。七を聖とする神の名は『私だ』。

日本は、聖なる七を、『私だ』という神を「鬼」や「牛」と「死」と結びつけ、呪い、封じ、隠し、閉じこもっている。日本人は「鬼は外」と言うことで、「私は外」と自分を呪っている。

だから、日本人が自分の祖先の神『私だ』を取り戻し、自分を取り戻すには、「七」を重んじ、「五つの杭」を引き抜かなければならない。


祇園祭を司る八坂神社の『祇園牛頭天王御縁起』
伏見稲荷大社祝詞稲荷大神秘文」
・日本酒の納め先である「松尾大社

という「京都文化」「お米」「日本酒」という三つの伝統を調べると、謎が解け、呪いが解けていく仕組みになっている。また、大本教も解呪に役立つことだろう。

日本人が聖書とクルアーンの『私だ』という神を嫌い続ける限り、神(私)を鬼だと信じている限り、自分と自分の国が嫌いな民族であり続ける。

聖書の神、クルアーンの神は、日本人の神、自分が自分らしくいられる神である。



三柱と七柱揃ったら山に行けよ。――『日月神示

箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまった。――『創世記』8章4節

やがて、声あって曰く、「大地よ、汝の水を呑みほせ。大空よ。鎮まれ」と。すると洪水は引き、事件は完全に了(おわ)って、舟はジューディー山の上に止った。その時、また声あって曰く、「ことごとく滅び去れ、悪人ども」。――『コーラン』11章(フード章)46節


f:id:tenfingers:20170205013350j:plain

7月17日 京都・祇園祭山鉾巡行