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十本指のブログ

十は残りのもの。残りのものには至福がある。

『野生の思考』と『神秘のカバラー』

『野生の思考』は、レヴィ=ストロースが、地球上から<野蛮>と<文明>という幻想を解体した作品として、世界に広く知られている。ただ、この本がダイアン・フォーチュンの『神秘のカバラー』第12章に強く影響されたものだ、という指摘を、日本語サイトで見かけないのが…私には気になる。私が見つけてないだけなら良いのだが。

この本のこの章では、「人類学者」が未熟な考えとして扱っている「野生の思考」についての手厳しい指摘が見受けられる。例えば、『老子』なら英語圏での標準訳が Old Boy という滑稽な翻訳をされていると。つまり、原始人が未熟なのではなく、人類学者の思考と翻訳こそが「未熟」で「滑稽」だと。

また、第12章の3段落に
>「他人がその『神』を知る『名』を謗るなかれ。アラーを謗ることはアドナーイを謗ることなり。」
という密儀の言葉が引用されている。

1935年に初版が出た『神秘のカバラー』には、ユダヤ教神秘主義カバラー、『老子』、イスラーム教、野生の思考などに対して、批評的な、偏見や先入観のない公平なまなざしがある。またダイアンは「自然の諸力の人格化と神格化」を「未熟ではあるが賢い試み」「解決不可能な二元論の破壊的、跛行的影響から自らを救った」と高く評価している。

人類学者であるレヴィ=ストロースが、人類学者に深く考えることを強いて成功した彼が、『神秘のカバラー』の12章7段落の「異教の多神教体系を人間精神の異常な気違い沙汰と見てはならない」「異教の神々が、その全盛時代に最も知的な奥義に精通していた最高神官達にとって、何を意味していたのかを発見するように努めなければならない」を読まなかったし、心に留めなかった――と考えるのは難しい。

日本の人は、レヴィ=ストロースミルチャ・エリアーデのように、【野蛮と文明】という批評精神が欠如したダーウィニズム的な無知愚鈍から救われた人たち、他人を無知から救う彼らのテクストに関心が薄いのかもしれないが、人と時代は進化や文明という枠を超えてうごめいている。昔も今もこれからもだ。

何となく、野蛮か文明か、田舎か都会かと言われなくなったワケではなく、誰かが勇気ある一歩を踏み出したおかげで、その背中に、その足あとについていく人たちが現れ、次第にそれが道になったのだ。

良い女魔法使いは、童話の中で「召使いをお姫様に変える」だけでなく、世界的に有名な文化人類学より先に、その道を歩く開拓者となり「野蛮と文明という不毛な二元論に支配された世界に救いの魔法をかけた」。自ら救われ、他者を救う賢女は、自ら救われ、人と世界を救う者たちの連環を知っていた。

 あなたの泉を祝福されたものとし、
 あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。
 愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。
 その乳房がいつもあなたを酔わせ、
 いつも彼女の愛に夢中になれ。―――『箴言』5章18〜19節