十本指のブログ

十は残りのもの。残りのものには至福がある。

創造は物体や肉体をつくらない

現代人は、「創造する(create)」という言葉を、建築家やデザイナーのような「物をつくる」文脈で使いがちだ。

しかし、聖書の『創世記』の「創造する(בָּרָא、create)」は、物質や肉体を含んでいない。

創世記1章1節

In the beginning God created the heaven and the earth. Now the earth was unformed and void,

(始まりに神が天と地を創造した時、地は形がなく空だった、)

創造された地には「形がない(formless)」で「空(void)」とある。

創造には「形がない」。創造は、物質や肉体を伴わないのだ。だからこそ、「形造る(form)」や「造る(make)」という、肉や形を伴うやり方、表現がある。


創世記2章7節

Then the LORD God formed man of the dust of the ground,

(そのとき神である主は土地のちりで男を形造った、)

創造には「形がない(formless)」で、「形造った(formed)」には形や肉がある、とハッキリ言われている。だが、日本で普及している聖書である新共同訳、新改訳、フランシスコ会訳は創世記1章27節をこう訳してしまう。


And God created man in His own image, in the image of God created He him(JPS Tanakh 1917訳)

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。(新共同訳。プロテスタントカトリックの共同訳。)

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、(新改訳。プロテスタント訳。)

神はご自身にかたどって人を造られた。人を神にかたどって造り、(フランシスコ会訳。カトリック訳。)


「創造には形がない」のに「かたち」「かたどって」

「image」なのに「かたち」「かたどって」

残念ながら、新共同訳、新改訳、フランシスコ会訳の翻訳者たちは、信仰と言語能力の両方が無いようだ。

フランシスコ会訳にいたっては「created」を「造り」「造られた」と「made」と混同するほど、聖書を改ざんしている。


創造を「かたち」に結びつければ、天の国への道は閉ざされる。なぜなら、天(の国)は名がなく形もない第一日の天であり、名があり形のある第二日の天(大空)は「良しとされていない」からだ。

創造を「かたち」に結びつければ、イエスが結婚と離婚で語った創造も「かたち」になり、パリサイ化し、「パリサイ人のパン種でニセの教義がふくらんでしまう」。事実、カトリックは結婚や離婚を「かたち」「肉体」のことだと勘違いしている。

新共同訳、新改訳、フランシスコ会訳の三つは他も「大事なところばかりまちがいだらけ」だ。それらの間違いを指摘するとキリがない。新しい翻訳が必要だ。現状、ヘブライ語聖書、ウルガータ聖書、英語訳聖書を使うしかない。

私は、日本人クリスチャンに信仰深い方々がいると知っている。しかし、「新共同訳」「新改訳」「フランシスコ会訳」には天国への道がなく、地獄への道しかない。

創造には、物質や肉体という形はない。天の国には、形がなく、名もない。天の国へ向かう結婚には、形がなく、名がない。

神(אֱלֹהִים)は人間(אָדָם)の創造主、男性(זָכָר)と女性(נְקֵבָה)の創造主である。

神(אֱלֹהִים)である主(יְהוָה)は、男(אִישׁ)を形造られ(יָצַר)、女(אִשָּׁה)を造られた(עָשָׂה)方である。