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十本指のブログ

十は残りのもの。残りのものには至福がある。

一者

一者。

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中世思想にはイスラーム哲学が、アラビア語が欠かせない。イスラーム教だけでなく、中世キリスト教イスラーム哲学から多大な影響を受け、中世ユダヤ哲学はほとんどアラビア語で書かれたからだ。しかし、なぜかアラビア語で「1」をなんと言うのか、「1」をアラビア数字ではどう書くのか知らない日本人がまだまだ多い。

アッラーの67番目の名を「アル・ワーヒド(اَلْوَاحِدُ)」という。英訳なら「The One」。一者。ワーヒドは「1」のこと。また、クルアーンの中でもさらに重要視される112章では、アッラーが「アハド(唯一)」と呼ばれ、アッラーの67番目の名が「アル・アハド(اَلأَحَدُ)」とされることもある。

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イブン・アラビーは、ワーヒドをアッラーとし、アハドを名前以前の存在とした…と井筒俊彦は紹介している。しかし、「アハド」は、朝晩の祈り、寝る前の祈り、悪魔祓いに使われるクルアーン112章に出てくるコトバであり神名だ。そうした基本的な状況を知らないと、まるで「アハド」が一般的には使わない哲学用語のように思えるのではないだろうか?

日本人がアラビア語抜き、クルアーン抜き、信仰抜きでイスラーム哲学だけ知りたい、というのは相当に無理がある。日本人は、自分たちの宗教や道徳、仏教神道儒教すらよく知ろうとしないために、知識人やエリート層にすら宗教的な理解力がまるでない。また、日本人は外交官の卵すらエリートですら小論文の読み書きやディベートの基本すら知らず、思想の重要性も知らない。早稲田や慶応のエリートですら、基本的な歴史的年号テストで平均4〜5点(100点満点)を取るほど歴史的に無知。宗教的理解力が無く、思想が無く、基本的な論理的能力に欠け、歴史にすら無知で無能な日本人が「宗教と思想と論理とアラビア語を避けて」と怠けるなら、何を得られるだろうか。

一者への理解を阻むものは、こうした地球レベルでの劣悪な環境だけではない。特に「一神教多神教」という、愚劣で低能な文脈は「アハド」の意味を完全に理解不能にさせている。

私が思うに、一者に対する無理解の根っこはすでに和の精神――「憲法十七条」の一条から――始まっている。「人皆党有り、亦達(さと)れる者少し」「上和らぎ下睦びて、事を論うに諧ひぬる」。残念ながら、本物の和が存在した時代の日本であっても、「アハド」を理解することはできない。“人皆党有り”という多の認識が先に来ている人々には、ゾロアスターの「二」がわからないし、クルアーンの「一」はわからないのだ。

アハドが分からない、つまりそれはヘブライ語のエハード(אֶחָד、一つの)がわからないことも意味する。

また、アハドがわからないとはつまり、アラビア語のサラーム(平安、平和)がわからないことも意味する。なぜなら、サラームもまたアッラーのサラーム、つまりアハド(一つ)のサラームであり、多ではないからだ。また、それは同時にヘブライ語の「シャーローム(平安、平和)」もわからないことも意味する。サラームやシャーロームは両者とも「こんにちは」として使われる。アラビア語ヘブライ語のあいさつすらわからない人に神を理解するのは不可能だろう。

現代人的な感覚、「共通の話題すら少ないバラバラの社会や対人関係」や「相対的な悪平等」を想定する限り、アハドやエハードどころか、チームワークでの一体感すら理解できない。低いレベルでの統一感覚を持たない人が、高いレベルでの統合的一者ワーヒドを理解できないのは言うまでもない。ワーヒドがわからない人にはアハドがなおさら遠い。


和の精神やチームワークのような”統合的な一”すら理解できない状態のまま、アハドを、一者を理解するのは信仰的にも知的にも不可能だ。また、アハドやエハードの理解の土台がなければ、聖書の「神の義」もクルアーンの「正義」も全くわからない。

正義と悪の【二つ】があって、倒す側が「正義」という思考回路では、聖書やクルアーンの「一者」「平安」「正義」は全くわからない。あるいは、相対的な善悪なき【多数】がある、という思考回路でも「一者」「平安」「正義」が全くわからない。

日本人は知的レベルや信仰に関わらず、「1」と聞いて、反射的に「0,1,2,3,4,5,6,7,8,9」の【1】を連想してしまうのではないだろうか?あるいは「0,1」という二進法の一を。こういう十進法な「一」の理解、二進法的な「一」の理解もまた、「一者」への無理解へとつながっている。

和の精神、善悪、多数、十進法、二進法を否定されたら、「一者」をどうやって理解すればいいんですか?と言う人がいるかもしれない。しかし、「聖なるもの」「信じる」「愛」「平和」「正義」「七」「牛」「慈愛」「真理」「ゆるす」「創造」「アダム」「カリフ」「人の子」「恕」「氣(心身統一合氣道)」「任天堂」など、世界には一者を理解するヒントがありふれている。

なぜだか、日本の物語には「アハド」や「エハード」への理解や表現を見かけない。文学か娯楽かを問わず。古典か現代かを問わず。一方で、ヘブライ語に詳しい日本の牧師さんやスピリチュアルに親しんだ人やそこらの日本人ムスリムは、「エハード」や「アハド」を普通に理解している。

虚淵玄さんが様々な作品を通じて「LOVE」に近いものを表現しているが、そこにはゆるしがなく、「一者」への認識がない。

日本の近現代文学であれ映画であれアニメであれ、一者としての「父」や「子」への理解が全くない。そこに聖霊がなく、ただ「父と子」という二つに分裂したものがあるだけだ。このおそろしいほどの無理解には自覚症状もない。まさに絶望だ。愛なき父、一者でない父、創造なき父、聖霊なき物語。

こうした日本での無知と無理解は、【五】を通じて維持されている。

【五】とは何か?知らず知らず、インドから朝鮮までシルクロード的な範囲の中に生きることだ。

【五】とは何か?仏教儒教道教老荘思想神道これらの範囲延長の中に閉じこもろうとすることだ。

【五】とは何か?鬼は牛の角が生えていると思い、丑の刻を悪い時間と思い、丑寅を悪い方角だと思い込むことだ。

【五】とは何か?雅は、左三つ巴と右二つ巴の合わせて五で表現できると思い込むことだ。

【五】とは何か?初期仏教では未熟を意味した五に旗を与え、聖なるもの意味した七を鬼門として封じた都を持つことだ。

思考も感覚も旅行もインドやチベットなどで止まり、その西、イランやアラブやヘブライギリシャやローマ、あるいは初期仏教へ行かないこと。こうした【五】への囚われは、一者の理解を拒む。


 こうして彼(ゴータマ)がわずかの食べ物を口にしたとたんに、彼に従ってきた【五人】はすっかり失望し、くちぐちにこう言いあって彼のもとを去った。「修行者ゴータマは気が触れたおろか者だ。彼は道を見失ってしまった。では真実は存在しないのか」

――ダルマグプタカ派のヴィナヤ・ピタカ 大正蔵第二二巻「四分律」780〜781頁


「一者」「神の義」「平安」への理解は、和の精神、正倉院の雅、善悪、多数、十進法、二進法、無宗教、進化論、歴史、神道儒教老荘思想、日本仏教五行思想、などの範囲に閉じこもろうとする人には全く不可能だ。

では、一者とは何か?正義と悪の二つが存在せずに正義が存在することだ。

一者とは何か?多数の正義は存在せずに正義が存在することだ。

一者とは何か?アーダムを天使たちが土下座して礼拝することだ。

一者とは何か?アーダームが神の像であり神の似姿であることだ。

一者とは何か?創造が愛であることだ。

一者とは何か?旧約聖書新約聖書クルアーンが一つの本であることだ。

一者とは何か?神が唯一であることだ。

لا إله إلا الله محمد رسول الله
神の他に神はなくムハンマドは神の使徒である。