十本指のブログ

十は残りのもの。残りのものには至福がある。

「正義の味方」という言葉が生まれた1894年

ハロー、エヴリワン。

 

 今回は「正義の味方」という日本語独特の表現について。

インターネットではこの言葉が『月光仮面』の放送、1958年(昭和33年)から始まったという記述が見受けられる。けれど、実際はさらに64年前から存在している。

 

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それはキリスト者内村鑑三の『後世への最大遺物』だ。箱根の芦ノ湖の畔で、33歳の内村鑑三が語った近代的な講演で出てくる言葉。内村鑑三は、徳川家康の子供の頃の話を引用する。河原で子供が2グループに分かれ、石を投げ合っていた時、彼は家来に命じた「少ない方へ行って助けてやれ」と。

 

>それでわれわれのなすべきことはいつでも【少数の正義】の方に立って、

>そうしてその正義のために【多数の不義の徒】に向って石撃をやらなければなりません。

>もちろんかならずしも負ける方を助けるというのではない。

>私の望むのは【少数とともに戦うの意地】です。その精神です。

>それはわれわれのなかにみな欲しい。

>今日われわれが【正義の味方】に立つときに、

>われわれ【少数の人が正義のために立つ】ときに、

>少なくともこの夏期学校に来ている者くらいはともにその方に起ってもらいたい。

 

ここで語られてる正義の味方は、武士の意地で、

多数派につかず少数とともに戦う意地、とある。

 

確かに強い方、多数派につく側は意気地なしで

悪い打算的な心理が働いており、そこに正義はない。

みんなに合わせる側は、正義の味方側では決してない。

正義の味方は最初のうちは損をしてるようでも、最終的には徳川家康のように

天下を掴むのだろう。近代的なジャスティスはさらにこの先にある。

「多数か少数か」という前近代にある日本人には、まだジャスティスはわからない。

 

ジャスティスは、絶対君主の正義でない正義、

絶対的な王なき正義だ。天皇制を続ける日本人には理解できないし、

批判もできない尊いもの、それがジャスティスだ。

だから、「絶対的な正義を騙る海軍」や「自由な王」という

封建的で古臭い世界観にハマっている人は、近代的な正義を嫌う。

 

王や天皇に依存する人々は正義の側につけないし、

尊い正義が何のことかわからないし、正義を批判できない。

彼らは絶対的な王なき近代の正義を、絶対的正義だと勘違いする卑しい老害になる。

彼らは自由権と共にある近代の正義を理解できない卑しい老害になっている。

1日3時間しか眠れない不自由な尾田栄一郎は、自分や家族をおろそかにする

古いタイプのお父さんの典型だ。その道のりにも果てにも人の自由はない。

 

人間の正義や自由は、天皇や王やみんなに合わせるのをやめた新しい人にしか

見えてこない。

 

私は最初に言った。「ハロー、“エヴリワン(everyone)”」と。

シンプルなこの言葉は、みんなに合わせない“ワン(自分)”

を持った人へのあいさつだ。

 

あなたは正義と自由を知る「エヴリワン」だろうか?

それとも、あなたはみんなの中で意気地も正義も自由も自分も無くした、

家畜のようなモブだろうか?

 

人と人の人間関係に自由と正義はあり、

天皇と民の非人間関係には不自由と不義しかない。

 

あなたは人か?それとも民か?

 

シーユー、エヴリワン。