ヒストールのブログ

ふんぐるい むぐるうなふ

ヤマトが「オメガ(Ω, ω)」を知る時と場と人が揃った 〜聖書や愛智や神話や悲劇や喜劇の基礎〜

 

f:id:tenfingers:20200828143603j:plain

わたしはアルファでありオメガである(???)

 

 ソクラテース(Σωκράτης)

 プラトン(Πλάτων)

 ポセイドン(Ποσειδν)。

 アポロン(Ἀπόλλων)。

 エロス(Ἔρως)

 トラゴイディアー(τραγδία)悲劇

 コイディアー(κωμδία)喜劇

 

 これは世界のどこにもないエラダ(ギリシア)文字の話の一つ、「オメガ(Ω, ω)」の話。残念ながら、日本人は「ソクラテス」「プラトン」「ポセイドン」「アポロン」「エロス」と「オメガ(Ω, ω)」の文字ごと消し去って発音している。今のギリシャエラダなのにギリシャギリシアと呼ぶ。エラダ文字は、ヘブライ文字と同じでそれぞれに対応した形と意がある。これはオカルトや神秘主義ではなく、普通にエラダ文書を読むための初歩だ。私はこれらを主に福音書を読むために使うが、ャエラダ文字の基礎なので、全てのエラダ文書に使える。いや、これらはエラダ文書を普通に読むのに必要不可欠だ。「オメガ(Ω, ω)」は塊(範囲)を示す文字だ。もちろん、先の七つの名も場の意を含む。「オメガ(Ω, ω)」は、エラダ文字の終わりの文字で、範囲の終わり、“そこまで”の範囲を示す文字だ。「オメガ(Ω, ω)」は名詞や動詞や形容詞の語形変化でよく使われる。名詞や動詞や形容詞の語形変化を無視して文を読むことはできない。だが、今まで全てのエラダ語訳は語形変化を無視し、全く訳していない。語形変化を無視して自国語やラテン語新約聖書やエラダ文書を読む人は、読んでいる文が塊(範囲)の話か、狭い点の話か、時の話か、言葉の話か、誰かと誰かのつながりの話か、語形変化する全てを無視している。今私が挙げた例それぞれに対応するエラダ文字があるし、語尾でなくても形と意は同じだが、あなたはそれらの文字が一つでも分かるだろうか?クリスチャンでない人でもエラダの神話や悲劇や喜劇、プラトン丶丶丶丶アリストテレス丶丶丶丶丶丶丶などを読んだ気になっている人は大勢いるが、文や語どころか文字の初歩なしに読書ができるだろうか?正しい訳は一冊もない。ギリシャ文字を全く知らないルネッサンスでエラダが再生されただろうか?栓が抜けたバスタブ、穴だらけのバスタブに湯が貯まることはあるだろうか?

 

 「オメガ(Ω, ω)」は塊(範囲)を示す文字だ。だからたとえば、「ホデ(ὧδε)」━━「ここ」と二文字足りない誤訳をされている単語━━は、塊(範囲)を示す単語だ。「トー(τῷ)」━━「〜に(to)」と誤訳されている単語━━は、塊(範囲)を示す単語だ。「キュリオー(Κυρίῳ, κυρίῳ)」━━「主」「主(メシア)」「主人」と誤訳をされている語(「キューリオス(Κυρίου)」の変化形)━━は、塊(範囲)に関する文のみで使われる。「オメガ(Ω, ω)」入りの語は無数にある。とりあえず、福音書にある「キュリオー(Κυρίῳ, κυρίῳ)」の11例を全て引用しよう。11例のうち10に「トー(τῷ)」がついている。

 

biblehub.com

 

Matthew 5:33 N-DMS
GRK: δὲ τῷ κυρίῳ τοὺς ὅρκους
NAS: YOUR VOWS TO THE LORD.'
KJV: shalt perform unto the Lord thine
INT: moreover to the Lord the oaths

 

主[יהוה]のところ

(人は天や地という範囲にかけて誓ってはならないという話)

 

Matthew 18:31 N-DMS
GRK: διεσάφησαν τῷ κυρίῳ ἑαυτῶν πάντα
NAS: and reported to their lord all
KJV: unto their lord all
INT: narrated to master of themselves all

 

主人のところ

(良い僕が悪い僕の悪事を主人のところへ行って報告している)

 

Matthew 22:44 N-DMS
GRK: Κύριος τῷ κυρίῳ μου Κάθου
NAS: SAID TO MY LORD, SIT
KJV: said unto my Lord, Sit thou on
INT: The Lord to the Lord of me Sit

 

主(メシア)のところ 

ダビデがメシアを主と呼び、メシアが主[יהוה]の右に座す)

 

Mark 12:36 N-DMS
GRK: Κύριος τῷ κυρίῳ μου Κάθου
NAS: SAID TO MY LORD, SIT
KJV: said to my Lord, Sit thou on
INT: [the] Lord to the Lord of me Sit

 

主(メシア)のところ 

ダビデがメシアを主と呼び、メシアが主[יהוה]の右に座す)

 

Luke 1:17 N-DMS
GRK: δικαίων ἑτοιμάσαι Κυρίῳ λαὸν κατεσκευασμένον
NAS: a people prepared for the Lord.
KJV: a people prepared for the Lord.
INT: of [the] righteous to make ready for [the] Lord a people prepared

 

主[יהוה]のところ

(洗礼者ヨハネが主のために人を移動させて集める的な文。「トー(τῷ)」がなく範囲の意が弱めなので気づきにくい)

 

Luke 2:22 N-DMS
GRK: παραστῆσαι τῷ κυρίῳ
NAS: to present Him to the Lord
KJV: to present [him] to the Lord;
INT: to present to the Lord

 

 主[יהוה]のところ

(幼子のイエスエルサレムへ連れていく)

 

Luke 2:23 N-DMS
GRK: ἅγιον τῷ κυρίῳ κληθήσεται
NAS: SHALL BE CALLED HOLY TO THE LORD),
KJV: shall be called holy to the Lord;)
INT: holy to the Lord will be called

 

主[יהוה]のところ

(上記の続き。幼子の聖別のために幼子を主のところに連れていく)

 

Luke 14:21 N-DMS
GRK: ἀπήγγειλεν τῷ κυρίῳ αὐτοῦ ταῦτα
NAS: this to his master. Then
KJV: and shewed his lord these things. Then
INT: reported to the master of him these things

 

 主人のところ

(神のくにの宴会話で、しもべが主人のところに来て報告)

 

Luke 16:5 N-DMS
GRK: ὀφείλεις τῷ κυρίῳ μου
NAS: How much do you owe my master?'
KJV: owest thou unto my lord?
INT: owe you to master of me

 

 主人のところ

(金持ちと光の子より抜け目ない管理人の話)

 

Luke 17:5 N-DMS
GRK: ἀπόστολοι τῷ κυρίῳ Πρόσθες ἡμῖν
NAS: said to the Lord, Increase
KJV: said unto the Lord, Increase
INT: apostles to the Lord Give more to us

 

 主(イエス・キリスト)のところ

使徒たちがイエスに信仰を【増やす[移動を示す文字入り]】よう願う)

 

Luke 20:42 N-DMS
GRK: Κύριος τῷ κυρίῳ μου Κάθου
NAS: SAID TO MY LORD, SIT
KJV: said unto my Lord, Sit thou on
INT: Lord the Lord of me Sit

 

主(メシア)のところ 

ダビデがメシアを主と呼び、メシアが主[יהוה]の右に座す)

  

 さて、仮にエラダ文字に意がないなら、なぜ「ホデ(ὧδε)」「トー(τῷ)」が塊(範囲)を示す単語で、なぜ「トー(τῷ)」+「キュリオー(Κυρίῳ, κυρίῳ)」がつく語の文が塊(範囲)を語る文なのか?繰り返そう。「オメガ(Ω, ω)」は名詞や動詞や形容詞の語形変化でよく使われる。エラダ文字は、ヘブライ文字と同じでそれぞれに対応した形と意がある。そして、全てのエラダ語訳は、文字の意が訳されていない。要するに、エラダ語の文書を90%以上見直しだ!ヘブライ語の文書も全て見直しだ!アラビア語の文書も全て見直しだ!人類皆、文字から勉強し直しだ!

 

biblehub.com

 

 広げた話をいったん畳み、エラダに戻ろう。エラダ語は、場を示さない語なのに、場を示す語と勘違いされ広まった単語がある。それは「プロ(πρό)」だ。プロフェッショナル、プロジェクト、プログラム、プレジデント、プレゼントなどの「pr-」の源だ。プロは英語やフランス語やイタリア語やポーランド語の単語の先頭に「前」として使われている。だが、エラダ語の「プロ(πρό)」に場としての「前」の意はなく、時としての「前」の意だ。時を示す文字と、(時間的に前と後を)「接触する」文字があるために、場を示す語と勘違いされた。福音書の「プロ(πρό)」は時としての「前」でしか使われれず、場としての「前」に使われる例はない。これはイングランド人やフランス人やイタリア人が「パイ(Π, π)」「ロー(Ρ, ρ)」「オミクロン(Ο, ο)」の三文字ともわからなかったこと、福音書やエラダ文書を読めなかったことを示している。もちろん、これら三文字のうち一つは時を示し、他の二つには別の意がある。わたしはこの記事では三文字について詳しく語らないが、別記事で書く。

 

 冒頭に書いた通り、これらは世界のどこにもない話だ。何を調べても出てこない。これは失われた秘伝だ。パウロはエラダ文字の肝心な文字、「プロ(πρό)」、「パイ(Π, π)」「ロー(Ρ, ρ)」「オミクロン(Ο, ο)」の語に含まれている救い(キリスト)、時、●の文字を知らなかった。パウロは愛無き無信仰者だった。もちろん、十二使徒パウロと違い、イエス・キリストとつながり、愛と信仰の人々で救いをもたらす人々だ。パウロはエラダ文字のある程度の法則を知っていたようだが、色々と欠落している。もし誰かが私に「あなたはパウロを無信仰者扱いするのか?」と聞かれれば、「もちろん」。一文字で救い(キリスト)を示す単語すら知らないパウロは、キリストや十二使徒とつながっていない。救いを含む単語を知らないパウロには救いがない。使徒言行録』やパウロ文書は聖書ではない。逆に聞きたい。救い(キリスト)を示す文字や語や文例に全く気づかない者のどこがクリスチャンなのか?救いなき文書を聖なる書と呼べるのか?エラダ語もエラダ文字もわからず文例を検証しない者の「クリスチャン」に説得力はない。

 

 かつて、偽ディオニュシオス・アレオパギテスの『天上位階論』は聖書に次ぐ権威を誇っていたが、偽書と暴かれ、偽の権威は失われた。いや、無だった権威が無に還った。パウロも偽の権威、無に基づく者だから、無に還る。さらばパウロ

 

(:Paul:). He was for a long time at a distance from me, and also among the worst class of spirits. He now associated himself with the worst devils, and now wished to form a heaven to himself [of spirits] to whom he might give joys from himself, but the joys of cupidities and pleasures; this also he attempted, but he became worse in consequence of it, and was cast down. I then spoke to him that this was not heaven but hell; and it was actually turned into a black hell. 

 (それはパウロである)。彼は長い間私から遠ざかっており、また最悪の部類の霊共の間にいた。彼は今は最悪の悪魔共と交わり、今自らのために霊共の或る天界を形作って、これに彼自身から楽しさを、しかし欲情と快楽との楽しさを与えようとした、そのことをまた彼は企てもしたが、彼はそのため更に悪いものとなり、投げ落とされてしまった。その際私は彼に、それは天界ではなく、地獄であると話したが、実際それは黒い地獄に変わったのである。━━『霊界日記』4413 スウェーデンボルグ

 

 エマニュエル・スウェーデンボルグ(1688-1772)は『霊界日記(Spiritual Diary)』でパウロが地獄にいる、パウロ十二使徒には関わりがないと書いた。その通りだ。私の場合、パウロはエラダ文字の救い(キリスト)を知らず、救いとつながりがない異端者、という言い方になる。またスウェーデンボルグは、霊界には時という考えがない丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶と書いている。その通りだ。エラダ文字には時を示す文字があるが、福音書は時を方便的に用い、時を多層の永遠と結びつけて丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶書いている。福音書は、「プロ(πρό)」とは逆に、塊(範囲)を示す語が時を示す語として訳されている。つまり、読者が時間の話だと思って読んでいる語の多くが空間の語なのだ。「オメガ(Ω, ω)」を含む空間語が時間語として誤訳されている。私はスウェーデンボルグを全て正しいとは思わないし、そもそも彼の全著書を読んでいないが、彼はかなり核心を突く。もう一つ引用しよう。 

 

That he wrote epistles does not prove that he was such [as that would seem to imply], for even the impious can preach well and write epistles; it is one thing to be, and another to speak and to write, as was also said to him. Moreover he has not mentioned, in his epistles, the least word of what the Lord taught, nor cited one of his parables, so that he received nothing from the life and discourse of the Lord, as was also said to him, when yet in the Evangelists is the very Gospel itself.

 

「彼が書簡を書いたことは、彼がその書簡に意味されているように思えるものであったという証明にはならない、なぜなら不敬虔な者でさえも良く説教もし、書簡を書くことも出来るからである、話したり書いたりすることと、現実の人柄とは異なっており、そのこともまた彼に言われたのである。更に彼はその書簡の中では、主が言われたことを、その最小の言葉さえも記してはいないし、主の譬え話の一つさえも引照してはいないし、それで彼は―また彼に言われたことではあるが―主の生涯と言われたことからは何一つ受けてはいないのであるが、それでも福音書の中には福音そのものが在るのである。」━━『霊界日記』4412 

 

 彼(パウロ)はその書簡の中では、主が言われたことを、その最小の言葉さえも記してはいないし、主の譬え話の一つさえも引照してはいないとは、パウロは聖書コピペしているが、エラダ文字(最小の言葉)の形も意も知らないし、主の意図とつながっていないと言うことだ。形だけ引用しても中身がわからないなら書いていないのと同じと。わたしはエラダ文字ベースなので、ラテン語で書くスウェーデンボルグの聖書注釈には賛否両論ある。しかし、わたしラテン語でよくここまでわかるなあ、軽やかな書きっぷりが現代人みたいだなあと彼に感心する。わたしは、自分で聖書を調べたいので、スウェーデンボルグの答えに従って思考停止したいとは思わないが、スウェーデンボルグはなかなかやる。

 

   

f:id:tenfingers:20200429205732j:plain

豚は穢れたレンガの建物を作る

 

 わたしパウロパウロの追従者を罵るのは行きがかりだ。わたしは、カトリックプロテスタントに対し下から目線の被害者気分はないし、クリスチャンに対し上から目線できるポジション(?)もないと思う。わたしの話は【ひたすら聖書に忠実であれ!】。とは言え、エラダ文字の全ての形と意が広まれば、結果的にパウロがアホだとバレて、ここ1900年のクリスチアニティは、伝統か新興かを問わず崩壊する。偽物という無が無に還るのは善いことだ。わたしはいかなるクリスチャン団体にも所属していない。わたしはどこかの団体や著者の説を真似ていない。わたしスウェーデンボルグの説やパウロを悪く語る誰かの影響でパウロを悪者と思い始めたわけではない。ヘブライ文字やアラム文字やエラダ文字を語形変化を含めて一文字ずつ理解しよう!というクリスチャンはいないはずだ。そんなクリスチャンがいて、そういう聖書訳が普及していたら世界はもっとまともになっている。難しいエラダ文字を避けて、半分〜ほとんどカットされた【わかりやすい答え】を求める者は、自分の下心のせいで騙される。信じたいからではなく、短絡的に考えて他者を攻撃したいという下心、思考停止したいという下心、これらの下心は「豚肉」「きたない心」と呼ばれる。聖書やクルアーンの比喩では、悪い分別をうのみにする(反芻しない)人を「豚、コイロン(χοίρων)」と呼ぶ。いわゆる「豚に真珠」の原文にある語。福音書ではコイローンの群れを生む塊は「レギオーン(Λεγιν)」と呼ばれる。群れるコイローンの源、レギオーンはイエス・キリストとつながらない。パウロの汚い心から出た『使徒言行録』やパウロ文書は全ての言葉が「レギオーン(Λεγιν)」というコイローン肉工場であり、パウロ製のコイローンの肉(文書、語)にうのみにしていい清い肉(清らかな語)は一つもない。パウロの文書は全ての文字と語がきたなコイローンの肉だ。パウロに従って建てられたチャーチはピラミッドやバベルの塔と同じけがれた館だ。

 

 相手がパウロでなくても、自国すごい、みんなに合わせろ、空気読め、努力、頑張れ、仲良し、先輩後輩、目上目下などの短絡的な答え、「コイローンの肉」を求めれば、騙される。何せ、目上目下や先輩後輩、仲良しや頑張れや努力なんて言葉は江戸時代に無い語、コイローンの肉なのだから。これらの無、コイローンの肉無宗教のカルト教義は、日本や世界のどこともつながっていない。日本無宗教のカルト教義は、新興宗教のカルト教義と同じだ。日本人はカルト教義を盲信し、世界にないkaroshi(過労死)やサービス残業、契約書のない吉本興業、人権なきAKB48やNGT48という地獄と悪魔を作っている。日本人の空海天皇家や貴族が、ルシファーと同根の明星天子虚空蔵菩薩)を崇めてきたのは少々出来すぎだ。明星天子が明星天使(ルシファー)と同じく嘘を美化し、(生まれ変わりで)「神々になれる」と嘘をつき、知恵を好み、十三を己の数とするのも出来過ぎだ。武家が好む帝釈天は、ゼウスの源、強姦する悪神(ダエーワ)。帝釈天の配下の四天王も、国分寺や有名な寺に偶像がある悪神(ダエーワ)。悪神たちは善神アフラを阿修羅や修羅と呼び貶め、「正義をやりすぎると悪になる」と正義を嫌い、レイプ忖度する。この辺りは現代日本の警視庁や警察や有名大学や裁判所そのままで、出来すぎだ。日本は空海天皇家や貴族や武士や無宗教や警察や裁判所まで、悪魔とコイローンに穢された地獄だ。

 

 さて、その地獄を片づける話をしよう。エラダ文字やヘブライ文字は文字ごとに意がある。が、一文字ごとの意に基づいて訳された福音書やタナハはない。注釈もない。エラダ文字に基づいてちゃんと福音書を訳し、ヘブライ文字やアラム文字に基づいてちゃんとタナハを訳せば、『使徒言行録』やパウロ文書という不必要悪の書を除けたところで、文章量が減る心配はない。むしろ、福音書やタナハは子供にわかる文体だ。福音書やエラダの愛智や悲劇や愛智や医学などをちゃんと訳した場合、日本に天皇や仏法や儒道道徳や五行思想という無は残らない。跡形もなく消える。ただしヤマト言葉は再生され、漢文的な音読みが減り、ヤマト的な訓読みの語が増える。また、無ではない有、ハロウィンやクリスマスやバレンタインのように再利用されるパーツはある。つまり、正月や七夕やどんど焼きや節分、寺社でやっていた武道や修行法などだ。悪者だった酒呑童子茨木童子や星熊童子など、オニたちは高く上げられるだろう。

 

日本人が梵字や漢字よりも楽しくすごいエラダ文字、

エラダ文字を受け入れる時と場と人が来た。

ヤマトはルネッサンスのヨーロッパ人よりも、

エラダを知る時「パイ(Π, π)」が来た、

エラダを知る塊「オメガ(Ω, ω)」が来た、

エラダを知る人「ガンマ(Γ, γ)」が来た。

もはや時と場と人は揃った。

ヤマトは、エラダを知る、

聖書ヴィヴリア神話ムーソロギアー愛智フィロソフィアー悲劇トラゴーイディアー喜劇コーモーイディアーを知るのだ。

ヤマトはルネッサンスのヨーロッパ人よりも、 

エラダを知るのだ。