ヒストールのブログ

日を直すナホビノ

宮崎駿アニメは残念アニメ 〜見直すたびに嫌な発見がある残念映画〜

 やあ、みんな。わたしのユーザーネームはヒストール、よろしくね。

 これは宮崎駿アニメを通じたアニメの話。漫画やアニメは新しさが売りだ。だから漫画やアニメは目を引くことが基本になる。けれども「何度も読み返せる」「読み返すたびに新しい発見がある」「新しい発見が良い発見」という漫画は少ない。流行が過ぎればはいそれまでと。

 

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アシタカは浮気者

  宮崎駿アニメは残念アニメだ。宮崎駿アニメは「何度も見れる」「見るたびに新しい発見がある」そこまではいい。だが「新しい発見が悪い発見」だ。わかるたびに失望する。宮崎駿アニメは、見せかけだけが新しく、中身は表面の見せかけに反して古く保守的、表面の良さに反して感じ悪い。たとえば、『もののけ姫』のアシタカはサヤから貰った小刀をサンにあげてしまう。感じ悪い!表面的には、主人公が日本人ではないエミシのアシタカだ。アシタカは男女平等で、階級を気にしない者で、希望に満ち、村を追放されて怒らない者に見える。だが、実のところアシタカは日本的な男尊女卑と階級社会と絶望と怒りの男だ。アシタカは男尊女卑で一夫多妻の王子だ。だから、サヤが自分に貞操を誓っていようと、小刀をサンにあげてしまうし、サンに介抱された後サンとセックスをするし、これらを気にしない。なぜならアシタカは現実的な王子だからだ。現代の女の子が望む白馬の王子様に反して、アシタカは一夫多妻を何とも思わない。だって自分は王子であり王だから。日本やエミシに一夫一婦制を支えるいかなる教えもない。そしてアシタカは村に帰らない。アシタカは村に残したサヤには会わない。そういう描写がある。アシタカ、感じ悪い!もののけ姫』は凄まじい情報量があり、一回見ただけではわからない。見るたびに発見がある、しかし見てわかるのは、表面の光り輝きとは真逆の暗い闇だ。わかればわかるほど絶望する。何も考えずに『もののけ姫』を見れば、アシタカが「日本人ではないエミシ」「日本の刀を持たず侍ではない」「日本的な馬には乗らずヤックルに乗る」「和弓を持たずエミシの弓を持つ」という浅い面にすら気づけない。しかし、エミシ、エミシの刃、エミシの弓、エミシのヤックルという浅い面は、何なら日本人、日本刀、和弓、日本の馬に交換可能だ。これらを変えても中身は大差ない。しかし、表面と人気には大差が出る。

 

 

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人と警察官のはざまで

 

 もう一つの例、『ルパン三世 カリオストロの城』は、原作と違い「人を殺さないルパン三世」に見えるけれど、原作通り「人を殺すルパン三世」だ。それは次元やゴエモンも同じ。ゴエモンの【無益な殺生はせぬ】という一見カッコいいセリフは、【有益なら殺す】【有益か無益かで人を殺す】ことを隠したセリフだ。ルパンが人を殺さないように見えるのは、たまたま無益だから殺さないだけで、有益なら殺す。ルパンは原作と一ミリも変わっていない。その証拠に、ルパンは悪い伯爵によって塔に閉じ込められたクラリスに【泥棒です】【この泥棒めに盗まれてやって下さい】と語りかけ、クラリスの一世一代の告白を断り、ハグすらしない。ルパンは塔に閉じ込められた宝を盗む人殺しの泥棒だからだ。ルパンは、塔に閉じ込められた姫を助ける白馬の王子様ではない。ルパンは法律を守らないが泥棒ルールを守り、「一般人を泥棒の世界に引き込まない」ルールを守る。だが世間知らずなクラリスにはルパンの事情や気持ちはわからない。クラリスから見れば「おじさまが私を振って私を抱きしめない」という喪失感があるだけだ。これらを遠目から察して茶番をした者がいる丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶それは銭形だ。銭形の「いや!ヤツはとんでもないものを盗んでいきました」「あなたの心です」は一見カッコいいセリフだ。何も知らなければ、出来過ぎ、カッコつけすぎにすら見える。ただしよく考えてみると、銭形はクラリスから何の話も聞いていないし、はじめから「ルパンはクラリスの告白を振る」「ルパンは一般人を巻き込まない」と分かっている。泥棒の中でならルパンは気のいいヤツだろう。それでも銭形は警察官だから、ルパンの気持ちも立場も、クラリスの気持ちも立場もわかった上で、ルパン三世を地の果てまで追いかけなければならない。この作中、銭形は有能な警察官として描かれている。たとえば、銭形はカップ麺を食事中に水車が一瞬軋んだだけで、水車のことを部下に尋ね、カップ麺を投げ捨て、すぐ水車を調べに行き、部下もすぐカップ麺を投げ捨て銭形についていく。銭形は即断即決の有能な警察官で、部下からの信頼が厚い。そうでなければ部下がカップ麺を投げ捨てついてこない。実のところ、ルパンはその水路から侵入している。しかし、この有能の向かう先は哀愁だ。銭形はルパンの気持ちも立場も分かりながら、多くの無理解に囲まれた「男の世界」に生きなければならない。そこに峰不二子のようないい悪女はいても、クラリスのような良い女の子はいられない。「男の世界」は哀愁漂う寂しい世界だ。そういうとこをわからずにハードボイルドな「男の世界」を遠目にカッコいいと思うのと、わかりながら寂しさに耐えつつカッコつけるのは違う。宮崎駿アニメは内実が保守的で、男女平等に向けた新しい変化というテーマを描かない。

 

 

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作り物の自然

 

  もう一つの例、『風の谷のナウシカ』。宮崎駿アニメは「自然」をテーマに含み、「自然」が良いものとして描かれているように見える。しかし、『ナウシカ』のテーマは【自然が偽物】だ。これは『ナウシカ』に限らず、宮崎駿アニメの奥深くに隠されたテーマとして継続している。アニメ映画の方は大幅にカットされているので、語るなら原作の方が良い。それに【自然が偽物】をしっかり書けば数冊の本になる。ブログ向きではない。で、でもわたしは別記事で【自然が偽物】話を書かないとは言ってないんだからね!(つーん)

 

 わたしは幼い頃から宮崎駿アニメが大嫌いだ。わたしのおばは少女漫画家で、わたしは近所のおばの家によく預けられていた。わたしはおばの持っていた『風の谷のナウシカ』の漫画を幼い頃から読んでいる。だからわたし宮崎駿アニメが大嫌いだ。わたしは察しが良く頭が回るので、大人がどう広い嘘をつくのか、幼い頃から細かく知っている。

 

 宮崎駿アニメは深い映画だ。しかし、知れば嫌な気分になる残念な深みだ。わたしは男尊女卑のあり方が男女平等に変わってほしいので、男女平等を装いながら男尊女卑を描く宮崎駿にヘドが出る。くたばれ!わたしは良い変化をもたらすものが好きだ。深いか浅いかではない。自分は変わりたくないと根本が腐っていたら、深みも自然もヒューマンドラマも空っぽで虚しい。わたしは映画が好きだ。映画の質や深い浅いではなく、映画そのものが好きだ。けれども、わたしは映画として宮崎駿アニメを低く評価する。ファミリー騙しに特化したファミリー映画が良い映画のはずかない。宮崎駿アニメは、残念な映画だ。