聖地マッカ
アッサラームアライクム(あなたがたに平和あれ)。
我はムスリムでヘブライ語聖書とエラダ(ギリシャ)語聖書好きのヒストール、よろしくね。
これはヒストールがムスリムになった日とその後の蓄積から、極東のモダン化について述べる記事。
※この記事で下線が引かれた熟語は、英語誤訳(ほとんどが日本語になかった造語。または使い方を根本的に変えた語)。
ヒストールは家族も親戚も無宗教。ヒストールが通ったのは無宗教の幼稚園〜大学。学生時代は無宗教の友達のみ。我は誰からも勧誘されずにムスリムになった。当然、ヒストールはアラビア語の礼拝ができる(ムスリム、ムスリマの礼拝はアラビア語のみ)。
※通訳を通じての導者の助言
(イスラームは『朗唱』により聖職者制度がなく、全員が一般信徒。聖職者/俗人、聖域/俗世間などの聖俗差別がない。導師はあくまで社会的な仕事。)
①「少しずつ。生活を急に変えないこと。」
「ムスリムやムスリマとだけ友達になろうとしないこと。」
「ムスリムやムスリマでない人との関係を切らないこと。」
②「他の一神教の人と議論しないこと。」
「多神教の人と議論しないこと。」
「無宗教の人をと議論しないこと。」
「イスラームと違う一神教や多神教や無宗教の人を変えようとしないこと(新興宗教でないため宗教勧誘ノルマはない)。」
③「他国の人になろうとしないこと。」
「あなたがムスリムになりたてだから、他国の人が自国のやり方が正しいからそれをやれと言ってくるかもしれない。そういう人に従わないように。」
「あなたは日本人で日本育ち。だから日本に合って、あなたに合ったやり方をゆっくり探して。あなたはあなたになりなさい。他の人にならないように。急がないように。意識的にゆっくり歩んで。」
あとは40分くらい「プラスな話」ばかり。ほとんどは【どういう時、神に祈りが通じやすいか】だった。「〜するな」という怖い禁止や脅しのような話は記憶にない。アメリカのポジティブシンキングの綿密版…的な話だった。我は「金や恋人が欲しいとアッラーに願っていいのですか?」と導者に尋ねたが、通訳者も導者も【なぜそれを我が宗教的にいけないと思うかがわからない】という反応をした。預言者ムハンマドは大商人の名門クライシュ族であり、クルアーンは商人言葉であり、イスラムは「商売が反宗教的」という考えや伝統がない。またイスラムには「恋人や結婚相手を望むことが反宗教的」という考えや伝統がない。何もかもが根本的に違う…。イマームからの助言は特に珍しいものではなく当たり前の話。だが、日本育ちの我にとって、入信したその日に「無宗教や多神教や他宗教の人と議論しないで」「布教されないで布教しないで」「と面と向かって言われるとは思わなかった。我は「自分たちと違う人に暴言や陰口を叩き、集団で差別や無視をし、己や集団を律するモラルやマナーなき日本人」しか知らなかった。その時の我は、アメリカ日本に押しつけなかった憲法(GHQ草案)を知らなかった。
GHQ草案第十一条から第十三条(国会図書館)
第十三条 一切の自然人は「法律上」(※誤訳。正しくは「法律以前に」)平等なり政治的、経済的または社会的関係において人種、信条、性別、社会的身分、階級または国籍起源の如何によりいかなる差別的待遇も許容または黙認せらるること無かるへし
Article XIII. All natural persons are equal before the law. No discrimination shall be authorized or tolerated in political, economic or social relations on account of race, creed, sex, social status, caste or national origin.
差別の許容や黙認がモラルに反すること、欧米では定着したモラルだが、日本では敗戦後の日本官僚が国民に無断で握りつぶした。GHQ側は提案した、「日本人にアメリカ案か日本案か投票で選んでもらおう」と。この事実も投票も日本官僚が握りつぶした。GHQ草案は日本国憲法と違い、【外国人と日本人は平等で権利がある】。
GHQ草案第十四条から第十六条(国会図書館)
第十六条 外国人は平等に法律の保護を受くる権利を有す
Article XVI. Aliens shall be entitled to the equal protection of law.
もしもアメリカが日本に憲法を押しつけてたら、差別の許容や黙認が違憲だったし、外国人の平等と人権を認める条文があった。アメリカが外国人に平等と人権なしの日本国憲法をつくり押しつける理由がない。現行憲法は【別の日本案より悪く】、老害に都合がいい底辺憲法だ。天皇も現行憲法も総投票で選ばれたものではない、日本老害(日本官僚)の押しつけだ。日本人がいま、外国人を差別し、差別の許容や黙認できるのは、底辺憲法を改正しなかったため。ヨーロッパ諸邦の共立(憲法はconstitutionの趣旨を全否定する最悪の誤訳)は日本の底辺憲法とは比べ物にならないほど良い。日本人は「差別の黙認や容認が現代モラルに反する」という情報すら遮断している。日本以外の敗戦邦(〈国〉の字は帝国主義の残滓)、ドイツ、イタリア、ルーマニア、ハンガリー、フィンランド、ブルガリア、タイ、ビルマ〔現ミャンマー〕は、憲法をアップデートしている。そもそも日本人だけだ、憲法を改正しない、改正のために議論や意見交換をしない、市民(選挙する者のこと)が選挙や政治について考えないのは。日本は敗戦国の底辺だ、押しつけられなかったGHQ憲法を知らず、現行憲法を「押しつけ憲法」と被害妄想して70年思考停止してる。こんな敗戦国民は日本人だけ。
ジョージ・オーウェル『1984年』
それ以前に、憲法に使われる国民、主権、権利、自由、義務、教育、政治、宗教、原理、経済などキーワードがほとんど英語からの全文字誤訳で造語、他は英語と漢字からかけ離れた誤訳で、ひどい誤用と実害を伴っている。現代日本語は、西周(1829‐1897)、箕作麟祥(1846-1897)、井上哲次郎(1856‐1944)らの訳者によって二千語以上造られ、日本初の哲学辞典『哲学字彙』(1881)やその増補版で爆発的に広まった。しかし、それらの翻訳方針は「英単語に合わせないで通俗的に広める」路線のため、九割以上が誤字誤訳となった。現代日本語の数百は英語誤訳と誤用、何の伝統もない造語ばかりで現代性がなく日本語でもない。ほか、翻訳ではない造語には〔努力〕〔頑張る〕〔仲間〕〔仲良し〕〔目上目下〕〔先輩後輩〕〔上司部下〕がある。これらはまったく現代や日本とつながっていない洗脳語だ。だから憲法や敗戦以前に現代日本語そのものがディストピア小説の洗脳語(ニュースピーク)同然、という大きな課題がある。
『哲学字彙』(1881)
我がこうして非現代で非日本語な現代日本語からの洗脳から脱出できたのはムスリム以後だ。たとえば“教え語”、教育、教科書、教会、宗教、教皇、司教は全て英語からの全文字誤訳で造語、日本語ではない。当然、イスラームもキリストもユダヤも宗教や教えではないし、エジュケイションは教育でなく、ティーチャーは教師ではない。欧米のエジュケイションと日本の教育はかけ離れている。かつて神道は神祇、仏教は仏法や仏道、儒教は儒道だった。日本人は祇や道や法を失い、“教え”や教育という空っぽの教義を盲信するロボットになった。壊れた儒仏は二度と元に戻らない。政府が神社合祀令(1906)で破壊した七万の神社も戻らない。祇儒仏は無知無力で自他を助ける力がない。加えて、“学ぶ語”も中身のない全文字誤訳と造語だらけ。哲学、文学、科学、化学、物理学、経済学、宗教学、芸術、進化、先進は全文字誤訳の造語だ。学校、学生、学長すら急ごしらえの誤訳。日本の無神論者は「教え語や学ぶ語が急ごしらえの誤訳」という初歩知識すらない。当然、これらの誤訳は誤用と勘違いがひどい。“教え語”や“学ぶ語”は勘違いと傲慢さでできている。日本人が考える現代はおままごとだ。日本人と言うより漢字圏十六億人は現代の法以前、法、ルール、マナー、コモン・センスに関して「何も考えて生きてないカルト信者」レベル。たとえば、漢字圏以外は「兄弟姉妹」「民」という上下差別用語がない。世界のシブリングズ(ブラザーズとシスターズ)はさん付けなしに名前で呼び合う。ラヴ、アガペーやエロスは同生を兄弟姉妹の上下差別で引き裂かない。ラヴは人を帝、貴族、庶民の生まれつきの不平等に引き裂かない。欧米に国民、市民、人民、公民、庶民、民間人なる差別用語はない。愛を知らない者だけが、兄さん、姉さん、〈国〉、〈京都〉、陛下、殿下のような避諱を行い、欧米や中東やインドに兄弟姉妹や〈民〉がいると噓で洗脳する。洗脳は、全家庭、全学校、全テレビ局、全新聞、全出版に及ぶ。日本人が洗脳されている証拠に何も知らされない。漢字圏の〈民〉は世界にない差別用語な事、英語圏では性差のないシブリングズが好まれる事、世界のシブリングズは互いに名前で呼び合うこと。こんな最低限の情報すら極東ではシェアされない。ポープは教皇や法王でなく【パパ】、プレジデントは大統領や社長でなく【前座】、ミニスターは大臣でなく【小立】、ミニストリーは省庁でなく【小立】。漢字圏の父母や教育者や新聞記者やニュースキャスターや出版社や表現者は「謙虚な現代西洋語」を必ず真逆に改ざんし、身近な者や他者を洗脳する。漢字圏の〈民〉はみな洗脳され、判断基準を奪われ、判断材料を奪われたカルト教団の子どもたち。昔も今も極東の〈民〉は、“目を針で突いて目を見えなくした奴隷”。
〈民〉目を針で突いて目を見えなくした奴隷をあらわす。
欧米に国民、大臣、大統領はいない。アメリカやフランスに始まったリパブリックは帝に忖度した漢字〈国〉でなく、帝王や大臣や国民なき人の〈邦〉だ。世界120の〈邦々〉は帝王や大統領や大臣や国民という差別用語がない。そもそも〈民【目を針で突いて目を見えなくした奴隷】〉は漢字圏だけの奴隷主義、奴隷支配だ。また、漢字圏では帝国主義の残滓、〈邦〉が皇帝への忖度から〈国〉にねじ曲げられたまま、直されていない。昔は民も使っていた一人称〈朕〉が今使われていない。昔は人が自らの父に使っていた〈皇〉が一般的に使われていない。昔は民も使っていた〈璽〉が一般的に使われていない。〈民〉〈国〉〈朕〉〈皇〉〈璽〉などが問題視できない〈民〉は昔のままの奴隷だ。〈民〉の心はまだ奴隷のままで人ではない。漢字の語源通り、日本では古代から江戸時代まで〈民〉は人でなく、権利なき草、民草だった。だから、明治時代に〈民権〉の言葉が会議の議題に出てきただけで、老害たち(多数派)は【民に権利があるとは何事だ!!!】と激怒し、会議にならなかった。実際、民は建国からずっと人でなしの草で治められるだけの【人以下のモノ】だから、日本の習わしからすれば、民に権利がない。日本が昔ながらの日本らしくあるとは、民は人ではない、人臣が民を支配する側、その上に帝がある━━不平等と無権利の老害国だ。だが、近代の国際的取り決めは、人は同等で、民や奴隷を公とするなら国や邦ですらない。目を突かれた盲目の奴隷を示す〈民〉を基準にし、〈民〉に権利という誤訳をかぶせる〈民権〉や〈国民の権利〉は狂っている。〈民〉も〈臣〉も〈武士〉も〈天皇〉も幻だった。日本には昔は天皇や大臣や貴族や武士がいたけどやめた━━のではない。元からそんな身分はなかった。天皇や大臣や貴族や武士など一人もいなかった。本当はみんなただの人だったのに、帝だ、大臣だ、武士だ、民だと嘘をついておままごとをやってきた。「昔は中国に皇帝がいたけれど今はいない」と言うのと、【元から帝や臣や民という身分が空想だった、全ての皇帝や天皇はただの人間だった。全ての民はただの人間だった】と言うのは話が違う。日本愚民や中国愚民は勘違いしてるから言おう。【人が生まれながらに等しい】とは、過去全ての帝王や貴族や戦士はみんな空想で、ただの人だったという話だ。いや、過去現在未来全ての身分は作り物で偽物という話だ。十六億の愚民はそれを理解していない。昔は帝や王や殿が“いた”けれど、最近になって変えた、という話ではない。江戸時代になかった先輩や目上や上司や社長や上級国民は無、人民共和国の独裁委員長も無という話だ。兄弟姉妹や帝や大臣や民という長いおままごとを含めての身分の無化だ。ヒューマン・ライツやイコールは、昔や今やこれからを含めての【生まれながらに等しい】だ。仮に生まれつき超能力や霊能力があろうと身分は生じない。愚民や老害は、過去の帝や王や貴族を「本物」の伝統や文化として捉え、権利や平等は最近だけの作り物とさかさまに考える。ヒューマン・ライツやナチュラル・ローは、過去現在未来全ての身分が文化や伝統ではない、身分は神聖さやネイチャーに基づかない偽物、非文化、非伝統という話だ。ヒューマン・ライツ(人の正しさ)やナチュラル・ロー(生まれながらの法)は、国や邦の内輪で自称する偽物の身分、文化、伝統を全て消し去る。Rightは権や利と真逆の日常語「正しさ、右。正しい」だ。権利の誤訳を振りかざす十六億の愚民は、いまだにrightがまったくわからない。愚民や老害は、古い家庭身分や新造の身分を勝手に別枠にする。それらを別枠にしないでやめるのが「コミュニケーション」だ。
自然は作り物
Human Rightsの源、Natureは自や然とはまったく違う、ネイチャーは自然ではない。自然は元々日本語になかった英語誤訳で誤用、作り物だ。スタジオジブリの宮崎駿は漫画『風の谷のナウシカ』では自然は誤訳で作り物と表現したが、その後はひたすら自然を隠蔽する下等な俗物になった。日本民は自然やカタカナ英語ナチュラルが英語誤訳で誤用とすら気づけない。日本民は権利の源が自然ともわからないし知らない。なぜなら日本民は権利や自然は、昔使っていなかった非日本語、誤訳で誤用と知らないからだ。日本民は、権利や自然を知ってると幼稚にわめく。しかし、日本民は欧米にいない国民、大臣、大統領、教皇、兄、弟、姉、妹、について何も知らない。日本民は、先輩後輩、目上目下、上司部下が造語で人権侵害で犯罪(法的拘束力がある国際人権規約に違反)とも知らない。日本民は、権利や自然を知らない。日本民は、「コミュニケーション」が兄弟姉妹、先輩後輩、目上目下、上司部下タテ関係に使えないことすら知らない。「コミュニケーション」とは意識的にタテ関係をやめ、意識的に互いを対等にする対人関係だ。タテ社会やムラ社会のなんとなく、まあまあ、なあなあ、「自然に」はコミュニケーションではない。これは国際ルール、コモン・センスで、国内でねじ曲げる事はできない。サッカーからボールを外したらサッカーではないように、タテ関係やムラ関係はコミュニケーションではない。日本人はコミュニケーションが苦手なのではない。日本人はコミュニケーションを【知らない】、できない、やらない、頑張らない、努力しない。日本人のタテ関係はコミュニケーションではない。日本人はコミュニケーションやるやらない以前に【知らない】し、知らせても幼稚に逆ギレする犯罪者が多い。それは人間としての最低限から逸脱している。こういう深い絶望を【死に至る病】と呼ぶ。
豚はレンガの家を建てる
バイブルやクルアーンでは、個を捨て、間違った分別をうのみにして群れる者を豚、その間違った分別を豚肉の比喩で呼ぶ。兄弟姉妹や民、日本では天皇や大臣というヒューマン・ライツに反する犯罪(法的拘束力がある国際人権規約違反)は、民主主義、憲法、国民、主権、権利、義務、教育などあらゆる洗脳語(これらは全文字誤訳だ)とセットであり、千の過ちでは済まない。この場合、豚肉は英語誤訳や間違ったカタカナ英語や短絡的な造語や老害価値観のことだ。日本のブタとはこれらをうのみにして群れる者たちの事だ。つまり、各日本民は元は人間だったブタ野郎やメス豚だ。日本民が新造した〔努力〕〔頑張る〕という悪い漢字は、何も変えなかった。日本民は江戸時代から一歩も進んでいない。一歩進むとは何か?