新約聖書に家という言葉はない。全て仮宿的な舘だ。
ギリシャ語の「オイコス(οἶκος)」「オイキアー(οἰκία)」は、家ではなく舘だ。舘は中風の人が寝泊まりできる場所、王宮、ダビデが入った神の客宅など、普通の自宅や家ではなく、本当の故郷や本当の居場所ではない。これはホメーロスの『イリアス(Iλιάς)』、アポロドーロスの『ギリシャ神話(Βιβλιοθήκη)』、ヘーシオドスの『神統記(θεογονία)』も同じだ。聖書が家を無理に言い換えたわけではない。日本語の家は悪い意で風土色や地元色や閉鎖性が強く、オイコスやオイキアーにふさわしくない。また、家は字的に「豕(いのこ、ブタ)」を含むので、【豚(間違った分別をうのみにする人)】【豚の肉(間違った分別)】を禁じる聖書やクルアーンに最もふさわしくない。家は聖書や西洋にない年齢差別用語、兄弟姉妹や目上目下や年上年下の源だ。英語のブラザーに兄や弟という上下差別はなく、ヘブライ語やアラビア語やエラダ(ギリシャ)語のにも兄や弟の差別用語はない。英語のシスターに姉や妹という上下差別はなく、ヘブライ語やアラビア語やエラダ語にも姉と妹の差別用語はない。年齢差別の源たる家はまさに豚小屋だ。家や兄弟姉妹では西洋や中東を理解できない。
καὶ ἐλθόντες εἰς τὴν οἰκίαν εἶδον τὸ παιδίον μετὰ Μαρίας τῆς μητρὸς αὐτοῦ, πεσόντες προσεκύνησαν αὐτῷ,
そして舘の処の中に来て、彼ら(東方三博士)は子と母マリアが共にいるのを見つけ、ひれ伏して彼を拝んだ。
豚小屋では語られないが、クリスチャンの役職に、法王、枢機卿、司祭のような偉そうな語は外立(存在)しない。クリスチャンや欧米に、宗教、教会、教皇、司教、教育、教科書のように「教えてやる語(造語)」も外立しない。従って、ブタ野郎やメス豚が人を真似て作った聖書訳、宗教や教会や教育や教科書という誤訳には人として最低限のカルチャーがない。義務も権利も完全な誤訳で、人の世界に「義務教育」という豚語はない。世界ではエジュケイションはライトであり、エジュケイションは漢字にすれば外率、ライトは漢字にすれば正だ。「外率は正」だ。
豚小屋では語られないが、世界や昔の日本に、目上目下、年上年下、先輩後輩、上司部下という差別用語も外立しない。世界や昔の日本に、努力や頑張るや仲良しや仲間という奇妙な言葉はない。世界に漢帝国の祖、劉邦の《邦》の字を避けて《国》を代用したいう帝国主義はない。家だけでなく国の全て、学校や会社や官公庁やマスコミはカルト教団かつ養豚場だ。家という豚小屋から始まった日本国は養豚場だ。もちろん韓国も北朝鮮国も中国も養豚場だ。
豚小屋では語られないが、世界に《民(目を刺された奴隷)》という差別用語はない。従って世界の人々は、民主主義、国民、人民、市民、公民、庶民、農民という奴隷用語を使っていない。家という豚小屋や国という養豚場は人語が語られず、人語の読み書きがない。
日本民や韓国民や中国民や香港民や台湾民は、家と民と国という根本から人でなしの豚と化している。豚が人になるためには聖書と舘が必要不可欠で、儒教や道教や仏教の根絶も必要不可欠だ。漢字圏でエラダ(ギリシャ)語やアラム語やヘブライ語が書き言葉になるほどの転換は必ず起きる。千四百年近く前、長安にネストリウス派の大秦寺、舘が建てられた。ネストリアンは酒造りと建築に秀でていた。酒と建築が世界中で歓迎されるのは言うまでもない。日本に渡来した秦氏も酒造りと建築に秀で【神は唯一】の祝詞を残すネストリアンだ。渡来人の秦氏による業、京都(平安京)の造営、米の神社(稲荷大社)や酒の神社(松尾大社)の創建が舘に当たる。稲荷の祝詞、稲荷大神秘文は【それ神は唯一にして、御形なし、虚にして、霊あり】と冒頭からネストリアンを証している。しかし、日本の教育(誤訳)は最低ゆえに、日本最多の神社、米の神社の祝詞が【それ神は唯一にして】という最低限の話すらシェアしていない。しょせん豚小屋の家だ。
昭和天皇はクリスチャンを真似て、一夫一婦制を初めて日本にもたらした。「恋愛や結婚は一対一」というルールやモラルはクリスチャンに由来し、日本や中国や仏道に由来しない。日本のレディがチャーチでの結婚に憧れるのは正しい。神の舘だけが「恋愛や結婚は一対一」「浮気や不倫はいけない」とレディを守ってくれるから。寺や社や道徳はレディを守らない、そもそも「恋愛や結婚が一対一」というルールは、仏道や神道や儒道にはないから。豚の道はレディを守らない。ブタ野郎はレディに土俵から降りろと言うし、セクハラやレイプを擁護し、レイプや近親相姦をたやすく無罪にする。日本の国、日本の家、日本の学校、日本の警察、日本の裁判所、日本の会社、日本の官公庁はレディを守らない無法無情の豚小屋だ。人やレディとして扱われたいなら、神の舘に逃げるしかない。
クリスチャンは愛や恋愛や愛情という言葉と心、一対一の恋愛や結婚、浮気や不倫の禁止、週や曜日や休日、ネイチャーやヒューマン・ライツやイコールなど必要不可欠なものをもたらしたが、無知で恩知らずで感謝の念がない日本民はそれらに何の感謝も恩も感じていない。日本民の無知と傲慢は人でなしの獣や家畜のそれだ。
家と民と国を壊して禁じ、
神の舘を増やして後、
日本民は人に戻れる。
聖書に「家」はない━━。