さるかに合戦。
今日ではそれが世界中に分布する謎の物語と知られている。しかし、想像力に乏しい『猿蟹合戦』(1923年)を書いた芥川龍之介(1892-1927)は、さるかにを日本の中の既知のお伽噺として書いてしまった。それはさるかに合戦は大正時代には犯罪となるという詰まらない雑文だった。日本帝国がアイヌモシリを1869年に侵略して植民地化したが、アイヌ版のサルカニ…いやハチカニ物語こと『六つ首の化け物』はさるかに合戦より豊かな物語だった。まず『六つ首の化け物』にサル🐒は出てこない。復讐譚でもない。
アイヌ版に出てくるのは、家の外から家の内に入ってくるイワンレクトゥシペ(六つ首の化け物)だ。 これは説教臭さも道徳もない。未知の怪物に対してどうするか、という歌物語だ。六つ首には赤子の頭や酒宴の囃し声を繰り返す頭や危険を知らせる頭もついており、竜之介の理屈に捉えきれない。何よりサルという退屈な配役と、バラバラのことを言う六つ首の化け物とでは、想像力に違いがありすぎる。日本は侵略者としては勝ったが、歌や物語や文学ではアイヌに負けていた。
竜之介は、『猿蟹合戦』(1923年)でさるかにを知らずに退屈なお伽噺と決めつけ、文学や批評や意見や警察という江戸時代にはない英語誤訳で知ったかぶった。しかし、それらは全文字誤訳なので、竜之介もそのファンたちも、カニやリタラチャーやクリティークやポリスが何か知らなかった。これら英語誤訳された漢字熟語は2,000語以上あり、日本の近代文学者や近代哲学者は全文字誤訳で知ったかぶってきた。文学者にはバカをだますのに疲れて首を吊り、心中し、切腹し、ガス管を咥える者も出た。竜之介のサルカニから約百年過ぎたが、日本人は自分たちが何も知らないことを知らない。進化や先進も全文字誤訳で、日本人が漢字から連想する意も誤り。
芥川竜之介は裸のバカ殿に過ぎず、文科省や芥ファンは裸のバカ殿の透明な服を称える愚民。バカ川アホ之介から高尚なものを引き出すことは出来ない。アホ之介は、リタラチャーやクリティークやオピニオンやポリスやレヴァルーシャンやディヴェラメントを知らなかった。日本人がここ百年「進歩」「先進」していないのは、そんな語が元から無だから。
レヴァルーシャンは進化ではなく外巻、ディヴェラメントは先進でなく不包だ。日本民は、自分より遅れている誰かをバカにしてマウントを取りたいというサルだった。日本民はサルだからサル心をサル回し(支配層)に見透かされ、進化や先進国という嘘で操られてきた。竜之介は、サルが死ぬ物語や、『六つ首の化け物』こそ支持すべきだった。 知らないことを知らないと認めないサルの百年は人の百年ではない。人それぞれと言うが、サルは人ではない。国それぞれと言うが、サル山は国ではない。日本人はサル並、日本はサル山並だ。
『六つ首の化け物』アイヌ語音声+日本語字幕
https://m.youtube.com/watch?v=tsEVQpS54dM
まずは『六つ首の化け物』の歌を聞き、サルは負けを噛み締めるといい。そうすることが、首を吊った芥川竜之介の供養になる。日本民が知ったかぶるサルでなく人だったら、芥川竜之介も太宰治も三島由紀夫も川端康成も死なずに済んだ。
サルの群れに気持ちを殺された竜之介と治と由紀夫と康成に愛こそあれ。