Sauron
天皇はサウロンだ。
汚れた冠
いささか奇妙な切り口になる。世界に年号はない。エンペラーは血統なしになれる征夷大将軍であり、血統が必要なキングより格下だ。ナポレオン(1769〜1821年)はキングになりたかったがエンペラー止まり。ヴィルヘルム1世(1797〜1888年)はプロイセンのキングでエンペラーを「汚れた冠」と嫌がったが、エンペラーに即位させられた。彼は即位式前日に「明日は最も不幸な日」と涙を流した。しかし、サウロンに従う豚の化け物、醜いオークたちはエンペラーとキングを知らず、「世界唯一のエンペラー」の年号、令和、平成、昭和を振りかざす。
natural person
Article XIII. All natural persons are equal before the law. No discrimination shall be authorized or tolerated in political, economic or social relations on account of race, creed, sex, social status, caste or national origin.
第十三条 一切の自然人は法律上(※誤訳。「法律以前に」)平等なり政治的、経済的または社会的関係において人種、信条、性別、社会的身分、階級または国籍起源の如何によりいかなる差別的待遇も許容または黙認せらるること無かるへし。
今、日本人の99%以上はネイチャーを知らない。ネイチャーは自然ではないのだ。昔、日本人は山川草木を自然と言わなかった。自然は「もしも」「ひとりでに」「本性」だった。近現代では、人が人、国が国である最低限の条件に「Natural Law」がある。ネイチャーは自ずから然りではなく、生だ。生と自然を知らない日本人は人間も日本語も知らない。生ながらの法は「Human Rights」の源。GHQは日本人の無知を改めるために、共立(憲法)草案に「natural persons」を用いた。ここが「自然人」の邦訳に。GHQ草案では差別の許容や黙認が禁止だった。しかし醜いオークは差別の許容や黙認ができる条文に改悪した。
外国人も平等
Article XVI. Aliens shall be entitled to the equal protection of law.
第十六条 外国人は平等に法律の保護を受くる権利を有す
生ながらの法は、国や民族に限定されない。西洋に「国民」の語はない。国と民(民族、庶民)に限定する条文は狂っているし、狂気を許容し黙認する豚も頭がおかしい。全員の平等、ガイジンや天皇を別枠にしないから平等なのだ。だからGHQ草案に「国民」はないし、第十六条は外国人の平等と正義(権利)について書かれていた。しかし、醜いオークはガイジンの平等と人権を削除し「国民」に限定した。
THE PEOPLEの100万人デモ(UK🇬🇧)
The people。国と民で差別しない「全員」のこと。条文やニュースや歌やデモに使われる「全員」のこと。国と民で差別しない語を意図的な悪意から「国民」にすり替えたのが日本国憲法だ。常識があるならこの異常に気づく。とある洋楽を傾聴したことがあるならこの狂気に気づく。
The world。国や民族や肌や瞳や髪で差別しない、世界に住む全ての人々のこと。
The children。国や民族や肌や瞳や髪で差別しない、全ての子供たちのこと。
Right
Human Rightsは一部の人しか持てない権や利ではなく、全員が生ながらに持つ正義の法だ。Rightは、正しさ(正義)、正法(許可)、正解(判断)、正に(返事)、正に〜だよね(語尾)?、正側(右)、正面、正角(直角)、正常(健康)だ。権利と誤訳してるのは「正法」の許可に過ぎす、権利はrightの全てに使えない。正法と言っても、仏教をあらわす正法ではないし、国以前の生ながらの法を含む。生ながらの右正義は政府や憲法や集団が与えられず、移すことができない。日本人は犯罪者から「権利」を剥奪しろと言う豚モンスターが大勢いる。しかし、豚モンスターは、正義や判断や返事や語尾や右や正面や直角や健康をどう奪えるのか、考えたことがない。
平和主義は常識
「国民」をうのみにした豚モンスターが一億匹を超えるため、日本民族はレイシストが多く、外務省に外交能力がない。例えば、「日本人と在日韓国人とアイヌとウチナーンチュは同じ国民で平等なのか?」という質問に答えられる日本人はいない。なぜなら、国民、政府、憲法、自然、権利の翻訳語が一文字も合っていないし、中身もないからだ。日本には平和条文が他国にないと思い込む豚すら大勢いる。日本人が「国民」で鎖国している限り、怪物性から脱却できない。
舵を取れ
Governmentは政府ではなく、舵取だ。ガバナンスを政府と訳せないし、動詞ガヴァンを「政府る」と訳せない。
チャーチのミニスター
Ministerは大臣ではなく、小立だ。また、公務組織もministry、小立。公僕の筆頭が、お上気分の省庁で、大臣など偉そうな言葉を使ってはいけない。謙虚な西洋人が大臣という下品な成り上がり用語を使うわけがない。サービスとミニスターの源である「ディアーコノス(διάκονος)」はチャーチの基礎だ。サービスやミニスターを知らない西洋人などいない。
student body president
Presidentは大統領ではなく、前座だ。Pre(前)+sident(座る者)。前座はスクールのクラスごとにいるクラス委員長であり、生徒会長…ステューデント・ボディ・プレジデントも前座だ。もちろんボディは「集団」のことだ。会議の司会や個人商店の店主も前座。これらは謙虚な言い回しは普通の生活で知る常識で、難しい話ではない。しかし、日本人の99%以上はこれらの常識を知らない。
Pope
Popeは教皇や法王ではなく、幼児語パパだ。チャーチのミニスターと同じで、わざと偉そうでない言い回しにしてある。謙虚なカトリックが皇や王なんて下品な成り上がり用語を使うわけがない。
九つの太陽は死んだ
Equal。ネイチャーによるイコールは、ザ・ピープルを天皇と大臣と国民に差別しない。ヒューマンを教皇や大統領や大臣と名付けない。ブラザーは兄と弟に上下差別しない。シスターは姉と妹に上下差別しない。シブリングは兄弟姉妹に差別しない。アイは目上目下に差別しない。イヤーは年上と年下に差別しない。ティーチャーは先に生まれた偉い先生ではない。ネイバーはヨコの隣人で、先輩後輩にタテ差別しない。西洋人は元から兄弟姉妹、先生、先輩後輩、目上目下、年上年下がいない。西洋人は姉なる太陽神アマテラス、弟なる英雄神スサノオ、国産みの兄イザナギと妹イザナミの呪術に呪われず、天皇と大臣と国民の差別が発生しない。諸悪の根源は偽の太陽。海外に兄弟姉妹や先生や先輩後輩がいるとは偽太陽の洗脳だ。海外に教皇や大統領や大臣がいるとは偽太陽の洗脳だ。洗脳ニュースや洗脳の吹き替え・字幕をうのみにするのは豚だ。
『蒼天航路』の董卓と蔡邕
所謂鬼神者,皆太陽之氣為之也。太陽之氣,天氣也。天能生人之體,故能象人之容。夫人所以生者,陰陽氣也。陰氣主為骨肉,陽氣主為精神。
天地之氣為妖者,太陽之氣也。妖與毒同,氣中傷人者謂之毒,氣變化者謂之妖。
━━『論衡』王充
太陽。『三国志』の董卓と蔡邕に関わる太陽話、今の中国人に関わる陰陽話。中国人は文化大革命(1966-1976年)以降、王充(27-97年)の『論衡』を好み、トップも『論衡』を引用する。中国の陰陽☯はどちらに傾いても良くない。『論衡』によれば、太陽は陰陽がよく混ざらなかった偏りで、陽気は主に精神の働き、陰気は主に骨や肉の働き。太陽の気は有毒で、鬼や妖怪を生むとある。日本の間違った陰陽道と歪んだ日の教育せいか、陽キャラが日輪刀で鬼を倒すとか、陰キャラが暗くて悪いという間違った陰陽観が流行る。正しい陰陽観とフィジカルトレーニングなら、陰気が強い骨や肉をつくると捉え、陰気のムキムキキャラが太陽の気から生じた鬼や妖怪を倒すだろう。
四つ目の儺
四つ目。中国語の鬼は幽霊で、筋肉ムキムキの怪力キャラではない。ややこしいが、この王充を再評価した蔡邕が東北の【鬼門】を伝えた人であり、中国風水に鬼門はない。蔡邕は四つ目の儺が亡き人の来る夜(昔の節分、大晦日)に矛と火と弓矢で鬼を祓うと伝えている。四つ目の儺が亡き人の来る夜に斬撃と火の矢で呪霊を祓う…どこかで聞いたような。
家は豚小屋
Houseは「家(宀+豕)」ではなく「牢(宀+牛)」だ。ハウスは豚小屋ではない。聖書やコーランでは、間違った分別をうのみにして、自分を捨てて群れる者を豚と呼ぶ。正に日本人。間違った分別を反芻して消化し、自分を持って群れる者を牛、羊、山羊と呼ぶ。豚肉を食べるなとは「自分を捨てて間違った集団に合わせるな」、牛肉を食べていいとは「各人の己を尊重するコミュニティをつくっていい」のこと。実際、日本人は家という豚小屋で、兄弟、姉妹、年上、年下、ガイジンなどの豚肉をうのみにする。家族はメディアからの豚肉もうのみにする。
School。スクールは学校ではなく、暇場だ。「スコレー(σχολή)」は《暇》であり、スカラーは学者でなく暇者。日本人が学校や学者や〜学と偽る原語に、《学》は含まれていない。
Humanities
Humanities&Arts。基礎知識。人間性は人の技と同じで、いわゆるliterature(文学), linguistics(言語学), history(歴史学), music(音楽), philosophy(哲学), religion(宗教学), law(法学), politics(政治学)を含む。しかし、豚はアートを芸術と誤訳し、アーツかつ人間性から言語、歴史、哲学、宗教、政治を排除する。日本の学校は人間性を教えない。芸術と人間性が同じとすら教えない。日本人は芸術や人間性の境界線が狂っている。
Social Sciences
Science。知識。ラテン語聖書の「智識(scientia)」からの輸入語。原語スキエンティアは神を肯定する智識であって、神を否定する智識ではない。サイエンスは知識体系のこと。なのでソーシャルサイエンスは、言語学(linguistics), 歴史学(history), 考古学(archaeology), 心理学(psychology), 政治学(political science), 経済学(economics), 経営学(management science), メディア研究(media studies), 人文地理学(human geography), 人類学(anthropology)などを含む。日本の学校はサイエンスを教えない。日本人は科学の境界線そのものが狂っている。
1984
わたしの解説は子供向けで、人間に必要不可欠なもの。西洋では、幼児から基本的な生活によって基本語彙が知らされる。日本の家庭や学校やメディアは子供たちに基本語彙を教えず、何も学ばせない。と言うより日本の大人は何も知らない。スタジオジブリの“国民的”な“自然”アニメは、ネイチャー、ザ・チルドレン、ザ・ピープル、シスター、ブラザー、キング、エンペラー、プリンス、プリンセス、ティーチャーについて知らせない。ジブリ評論に基本的人語が使われたことはない。ジブリアニメすら『1984年』の【Big Brother】と変わらない。
ネイチャーのないジブリ
ネイチャーこと生は山川草木を指さない。生は生む側であり、生まれたものの全体だから、部分を指さない。生は全体なので、ネイチャーが豊か、多い、美しいとは言わない。森が豊か、花が多い、山が美しいと言うことはあっても、生は貧富や多少や美醜という差別の源にならない。生は、ヘヴンを上げ、アースを丸め、天皇の源でないサン🌅を生み、ヤマタノオロチを殺さないシー🏖を生む。ナチュラル・ローは、姉と妹がないシスターを生み、兄と弟がないブラザーを生む。普通シブリングズは名前で呼び合い、ビッグ・ブラザーなどと呼びかけない。これらは普通の事だが、日本人の生活やジブリアニメや芸術から決して学べない。
吹く🌬
Air。日本人はネイチャーを知らず、ユニヴァース(宇宙)やユニバーシティ(大学)を知らず、ヘヴン(天国)、アース(地球、地獄)を知らず、ワールド(世界、人類)、エア(吹🌬、吹く🌬[述べる、公表する])を知らない。エアが「述べる」「公表する」の動詞とシェアしていたら、「空気読んで黙れ」というモンスターは大量発生しない。空気読めという老害やキッズは人間をやめた豚のモンスター、オークだ。
Seven Liberal Arts
Individuality。不裂(個人)。西洋は個人主義ではなく、パブリックやリバティ🗽やソーシャルやコミュニケーションの基本が、個人の原語インディヴジュアラティだ。日本は19世紀末まで、公共も公務も公園も、社会も会社も社長も、自由も個人も人格も人権もなかった。日本人は公私混同どころか、近現代の公と私が分からない醜いオークだ。日本に自由の女神リーベルタースはいない。ヨーロッパは12世紀からリバティ🗽によるチャーチやコミュニティやシティ、七つのリベラルアーツ━━計算(アリスメティック)、幾何(ジオメトリー)、音楽(ミュージック)、天文(アストロノミー)、論理(ロジック)、修辞(レトリック)、文法(グラマー)━━によるユニバーシティがあった。しかし日中韓はそれら全てがない。
太陽と月と星々におじぎされるヨセフ
エアすら読めないオークが人間になるために、聖書やローマ神話やローマ法は必要不可欠。太陽が主神で姉で天皇の先祖で、国名の由来なのが間違いだった。聖書ベースで、太陽も月も星々も拝んではいけないけれど━━むしろ太陽と月と11の星々は人間におじぎする側で━━カルデアやギリシャやローマの天体観も必要だ。太陽崇拝、天皇、日本神話、日本仏教、日本儒教、日本国憲法、日本国名を根絶すれば、日本国民は史上初めて醜いオークから人間になれる。
ブラザーやシスター、子供レベルの話が分からない神官や仏教徒や先生は、居るだけで有害な老害。ソーシャルなコミュニケーションは、聖職者と俗人、先生と生徒の上下関係ではない。どこにも神社や寺院や学校はあってはならない。
マスメディアは金が儲かるなら手のひらを返す。まともな翻訳語で儲かるなら、テレビ局も新聞社も出版社も新翻訳語に移行する。大衆も大手のテレビや新聞や出版物で言ってるなら手のひらを返す。しかし、「寄らば大樹のカゲ」「みんなに合わせる」「空気読む」で群れる豚は人間になれない。不裂を持った牛としてコミュニケーションしない限り、ジャパニーズは卑しいオークのままだ。
ONE RING
One Ring to rule them all, One Ring to find them,
One Ring to bring them all and in the darkness bind them
In the Land of Mordor where the Shadows lie.一つの指輪は、すべてを統べ、
一つの指輪は、すべてを見つけ、
一つの指輪は、すべてを捕えて、
くらやみのなかにつなぎとめる。
影横たわるモルドールの国に。
サウロン。日本国は醜いオークの影の陸地モルドール、人間の国ではない。第二次世界大戦期に書かれた『指輪物語(1937-1949年執筆)』は大日本帝国と無関係とは言えない。冥主サウロンは天皇及び輪廻への狂信でもある。肉体を失っても黄泉返る者、死んだ九人の王を操る者、ネクロマンサー。
アングルマールの魔王
エルフ王。冥主サウロンの配下、「魔王(Witch-king)」は西洋の伝統にない。フランツ・ペーター・シューベルトの『魔王』は「エルフ王(Elf-king, Erlkönig)」。エルフは太古人、つまりエルフキングは太古王のこと。魔王のオリジンは大己貴神だ。日本は豊葦原中国から、国土、神剣、勾玉、天岩戸の神話を奪った。天岩戸は豊葦原中国の名前が出るが、日本国の名前が出ない。なぜなら「日本」「天皇」は689年に新造したものだから。「大和」も造語なので『万葉集』に大和の語は一回も出ない。日本神話の倭国は日本の敵国だ。中華の正史によれば、日本の遣唐使は【日本は倭と別の国】【小国だった日本が倭を併合した】と証言した。近畿の日本はヤマトではないし、中つ国でもない。日本は建国期から後ろ暗い。
太陽のない武家法
魔王。初めての武家法、『御成敗式目(1232年)』に天照の名はない。逆に【新皇】を与えた八幡大菩薩、怨霊と揶揄される天満大自在天神(菅原道真)の名はある。式目の注釈『倭朝論鈔』に「天照は大己貴神からこの国を乗っ取った虚言神」と書かれている。壇ノ浦の戦い(1185年)で草薙剣が失われた。その後、天照は第六天魔王に「神璽(八尺瓊勾玉)」を与えられたから天皇や伊勢神宮に正当性があるという話が流布した。『太平記』『平家物語』剣巻などがその例。ただ「神璽が勾玉」「魔王に勾玉を与えられたから天照と天皇は由緒正しい」は、ほとんどの日本国民にとって意味不明だろう。大己貴神を直に出せないから魔王と曖昧に言った。1300年経っても、この国の正当性の根拠は魔王に貶められた豊葦原中国の大己貴神のまま。
サウロンの抜け殻
Sauron, the enemy of the Free Peoples of Middle-earth, was defeated.
サウロン、中つ国の愛解く人々の敵は打ち負かされた。
フリー。600年も干されながら復活し、中つ国を侵略したフリーピープルズの敵。それは天皇だ。何せ枢軸国の中で、フリーやリバティ🗽やピープルを知らない怪物は日本国だけなのだから。何も考えていないなろう小説家たちも、日本国から異世界に視点を移し、「魔王」寄りの物語を大量生産する。それは日本国と天皇そのものが不正で「魔王」に正統性があるという真実の光。作者や読者は何も知らないが、真実は彼らを動かしている。遠い昔、日本国が豊葦原中国から、国土と神剣と神璽を奪った罪と穢は少しも浄化されていない。日本の日そのものが穢なのだから。
ウンゴリアントとモルゴス
蜘蛛。なぜ天皇がサウロンか。それは蜘蛛のウンゴリアントとシェロブだ。ウンゴリアントは二つの木の光を消費する者であり、初代冥主のメルコール(モルゴス)の協力者かつ、メルコールを殺しかけた者だ。サウロンはかつてメルコールの召使いであり、ウンゴリアントに勝てるはずもない。またウンゴリアントの子孫とされるシェロブ(Shelob)は「彼女(she)+蜘蛛(lob)」。強大で女性の蜘蛛と言うと、日本の土蜘蛛が思い浮かぶ。日本人が征伐した九州の女土蜘蛛は領主たちであり、九州からは「女性が上、男性が下」のヒメヒコ制の墓、そして絹を着た庶民の墓(1世紀)が出土する。近畿は8世紀になっても絹を物納できなかった。日本は絹のない男尊女卑の国であり、女王でまとまる邪馬台国の末裔ではない。日本人が征伐した女土蜘蛛こそ親魏倭王ヒミコ側の末裔であり、本当は空想的な蜘蛛の化け物ではない。しかし源氏の棟梁、源頼光が土蜘蛛を斬って膝丸を蜘蛛切と呼ばなければならないほど、土蜘蛛の問題は長引いた。天皇にとって土蜘蛛は神話的な敵であり、天照のごとき日巫女の末裔的な“女”だ。ウンゴリアントやシェロブを「トールキンがタランチュラに噛まれた体験」に還元するより、土蜘蛛と解釈する方が興味深い。
キリスト
葦。日本は日の女神も日の巫女も偽り。日本はヤマトでなく日出ずる処でもない(※)。魔王こそ中つ国の正統な主。日本国と天皇が三種の神器の蓋を開け、豊葦原中国に「国返し」をしない限り、日本国民は穢れた豚のままだ。天皇制と日本の日は不正と認め、国名を日本から「葦原邦」に改めない限り、呪いは止まらない。日本が葦船に乗せて捨てたヒルコは昼子でありモーゼだった。ヒルコの成長した姿とされる漁師エビス様は右手に葦杖持つイエス・キリストだった。
※日出ずる処「俀国(倭国)」では王は男であり、天なる兄として日の出前に結跏趺坐して政務を行った。日の出後は、日なる王弟が政務を行った。推古天皇は女性であり、日本の日は姉であり、日は弟ではない。日出ずる国と日本は冠位十二階も違う。日本は隋を「大唐」と呼び、唐と日本の遣唐使は日本と倭国を別の国としている。日本は日出ずる処ではない。
バハムートはアラビアなまり
バハムート。ヨーロッパの法はまず葦尺法であり、それがクラシックの葦尺に反映されている。旧約聖書のメノラー🕎の六つの《枝》の原語「カネ(קָנֶה)」は、ヨブのバハムートの「葦」とも訳されている。リバティによるソーシャルコミュニケーションやリベラルアーツは、葦尺法がなければ成立しない。葦尺は、先にモーゼの葦船、メノラー🕎の六つの葦枝、ヨブのバハムートの住む葦の茂み、イエス・キリストの右手の葦杖を受け入れなければ成立しない。バハムートはゲームに出てくる想像上の怪物ではない。バハムートはソーシャルやコミュニケーションを成立させる不裂(個人)のエネルギーだ。バハムートが開花した形がアメリカ合衆国であり、フランス共和国。日本人が個人主義と錯覚する各人による強国。西洋諸国が王を廃止し、王を弱め、各人のバハムートを認めて制御した結果、恐ろしく強い国々ができた。
葦船、葦牙、葦を啣む雁
葦とバハムート。自分の中のバハムートを認めない日本人はバハムートを認めたアメリカ人に負けた。バハムートは他者自身かつ自分自身のエネルギーだから、敵として倒せない。ヒルコは葦船で捨てた、豊葦原中国は譲られた、葦牙な最初の神は無視。空気読め、みんなに合わせろ、忖度しろ、自分より周りを優先しなさいと━━葦の茂みにいるバハムートを封じたから、日本人は弱い。葦船に乗せたヒル子を葦牙な国常立尊の使い(京都の狐)に食べさせ、豊葦原中国の葦の剣で禪院(地の神の院)を全部壊し、豊葦原中国の布瑠の言を唱えないと日本のバハムートは解放されない。
中つ国
中つ国。日本の呪いは極めて強力だ。葦船の昼子を吸血ヒルの子と嘘つき、葦原のヤマタノオロチをヘビと嘘つき、1936年に合気道の神社━━葦牙な国常立尊の本殿━━を1500発のダイナマイトで爆破し(坂口安吾の『日本文化私観(無料リンク)』)、日本がヤマトだと嘘つき、中つ国を中間の国と嘘つき、葦原の国土と神剣と神璽を日本のものと嘘つく限り、モーゼもイエスも信じることができず、近代化できない。真実、中つ国の東国民の99.9%は何もわからない。醜いオークはユニヴァースもネイチャーも、ブラザーもシスターも、ティーチャーもステューデントも、キングもエンペラーも、プレジデントもミニスターも、サービスもミニストリも、サイエンスもアートも、ソーシャルもコミュニケーションも、フリーもリバティ🗽もわからない。
太陽
太陽神の正体は罪人。『指輪物語』は最古の古英語で怪物とされていたエルフを、北欧神話の太陽より輝かしい光エルフに直したものだ。北欧神話はオーディンが巨人ユミルを倒した後、東西北南の四ドワーフが太陽と月と星々を造り、動きを決めた。北欧神話は太陽が女神でなく、太陽を名乗った人間の女性ソールだ。ソールは神罰により太陽の馭者をやらされ、いつもフェンリルに追いかけられる。ソールは神々の黄昏に最強のフェンリル「月の犬」に食べられてしまう。北欧神話の世界樹ユグドラシル、オーディン、マイティ・ソー、ロキ、巨人ユミル、エルフ、ドワーフ、フェンリル、ベルセルク、戦乙女などは【太陽が女神でない】ことを前提にしている。
月の犬と狼
初代天皇は罪人。天武は日本建国者で天皇創設者。天武は『古事記』『日本書紀』を造らせた者。しかしなぜか、歴代天皇の位牌を全て預かる泉涌寺は、天武を子孫ごと否定し、位牌を作らず、天皇のための儀式から天武系を除外する。坂口安吾は【両面宿儺は初代天皇たるべき人】と『安吾の新日本地理 飛騨・高山の抹殺』に書いた。天皇と日本そのものが罪と穢とは、まさに北欧神話のソールと同じだ。本来、「天狗」は文字通り「天の犬」だった。鼻の高い外国人のような天犬の正体は、天照という偽神の罪人を喰い殺すためにいるフェンリル。神と国を偽った大罪は愛のノコギリによって存在を消されるまで消えない。
牛パン
牛パン。聖書のチェーンとノコギリは豚のうのみと対極な牛の反芻とイスラエルの再建(人の子メシアの到来)を意味する。また、聖書のノコギリはルシファーのモデルになったカルデア王の国を、空想の大樹に見立て伐採する。人の子の肉をパンとして食べない限り、真に生きることはできない。これは二十億人以上の常識だが、他人に造られたレールの上を歩く豚は人語が聞こえない。
ユグドラシルと九つの世界
宮崎駿を含めて、中つ国の欠けた日本民という醜いオークは、ソールや中つ国や神々の黄昏が欠けた偽ファンタジーしか作れない。転生そのものが神々の黄昏の欠落なのだ。偽物からは勇者も魔王もエルフもドワーフも知ることができない。人語や人の物語をわかろうと努力しない豚のモンスターは一生人間になれない。人は輪廻転生しないし、輪廻転生した日本人もいない。豚の描く輪廻転生と勇者と魔王はどこまでも夢幻だ。
小さな島の日本人は、天皇という穢れたサウロンを滅ぼすために、家と日本と輪廻の指輪を捨てる旅に出なければならない。